5月4日(火)
ああああああ精神つらいぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!名前変えた。「颪」改め「すごい勢い」。幼さが減り、バカっぽさが増えた。いい名前だと思う。
さすがに何日もおんなじ散歩道は飽きるかと思いきやそんなことはないというか、私は場所にそんなに飽きない人間なのかもしれない。安住できればできるほどいい。人生の置き場に対して保守的なのだ。これは自由でグローバルな今の社会で暮らすとしては最悪のスタンスで、たぶんもう暮らせない。これで幕末とかに生まれていれば、大河ドラマの主人公になる系志士がキラキラした目で江戸がどの外国がどうの言うのを、バカじゃねーの、とその藩もとい郷村からすら出ようとはしないで身分として与えられた日々の仕事をダラダラこなしながら、体制が変わったことすらよく知らないまま19世紀の後半頃にひっそりと死ぬタイプの人生だろうが、もちろんそれが不幸せだとは限らないわけで、なのにどうして今はそんなやる気満々な人間しか生きられない社会になってしまったのか。世界や自由や文明なんぞ知らなくていいから村でダラダラ長生きするのを目指して、都会から来た民俗学者とかに伝承を案内するジジイとかになりたかった。知的生活ってそのレベルでいいではないか。いくら頑張ってもやる気が出ず頑張れない私のような人間もいるのにもかかわらず自由ばっかり与えられ、ライフハックとしての閉塞性が取りあげられた結果、私のような人間は、死ぬのを待つくらいしかやることがないではないか。生きるのも死ぬのもやる気がなく、「やる気がない」という状態は生きているということだから、生きているだけである。自らなにかしたいとかは特に思わない。
いや本当に、やる気のある奴だけやればいいことって実はたくさんあるはずで、やる気がありますと言いながらも「自分はこんなに頑張ってるのにあいつだけズルい」と口走ってしまうのなら、おそらくそいつもやる気はないのだということぐらい、わからないものか。さっきから私はやる気を「人生」とか「暮らし」とかいった大きめな事柄にあてはめて書いているが、これは実は本意ではなく世間の常識みたいなのに合わせているだけで、個人的にはやる気とはもっと局所的で具体的なものではないかと予想している。おそらく、私が日記を書いたり散歩をしたり本を読んだりまったく前に進まない就活をすこーしやったりするのは、そこに局所的なやる気を持っているからであり、能動性は日常内で細分化されたものが社会からの規範などによって絡まりあって、良い能動と悪い能動に分けられ、後者を選ぶ私のような人間は全体として「人生にやる気がない」「就活を本気でやってない」といったレッテルを貼られてしまうからではないか。いや「からではないか」ではなく、そうに決まっている。私は社会が悪いという結論に、ありとあらゆる方面から賭けている。私が悪いのは社会が悪いせいだということに、私の視野のうちに例外はひとつとしてない。それに後ろめたさを感じなくもないが、後ろめたさなんて、食ってシコって寝れば忘れる。所詮それくらいの影響力しかないのである。