5月5日(水)

   祈られる。
   祈った数だけ地獄に堕ちろ。
   雨なので散歩もできず低気圧にタコ殴りにされるクソな日なのだが、祈られたことによりさらにクソで、つまり自分がクソで、クソの気分がわかる。道端の放られたクソは、たぶん消えたくて仕方なかっただろう。昔、道端の犬の糞の視点で物語が展開される絵本作品を読んだことがある。そのラストで、道行く人に疎まれる自分を恥じて落ち込む犬の糞を見かねた雑草が、君がそのまま雨に打たれて舗道に溶け出し隙間を伝って流れてくることによって私たち雑草の養分になってくれるのだから、それが君の存在意義なのだから、元気出せ、と告げ、それに励まされた犬の糞は雨のなかで誇らしげに溶けていきその道端から姿を消す、というものがあったのだが、今考えればそれこそクソみたいな内容の絵本で、要するにこの世界に存在している上では野糞ですら「何かの役に立たなければいけない」という前提で生きなければならず、しかも生きているうちには何もできないというのならその身を存在意義に差し出せ、糧になれ、つまり死ねというわけである。それは「臣民であれば天皇陛下のために死んでこい」という時代よりも酷いかもしれない。私というクソが人間として生きるこの時代にも、道端に転がる犬の糞の世界にも、「臣民」「天皇陛下」という大義名分はどこにもないのだ(あったって嫌だけど)。ただ、社会に出れずに役に立たない出来損ないはせめて戦争にでも行って、アメリカの手助けとかをしながら中東辺りで死んでこい的なことを言うに等しいのがこの絵本の主題──もといこの社会である。私も母から自衛隊を勧められた(←自衛隊がいけないわけではないが、私に勧めるとか頭オカシイのか?)ことがあるのでよくわかるが、他人ではなくそこそこ仲の良い私の母ですらそういう思考回路を持つのだ。国や社会はたぶんもうその考え方、おめーはクソならとっとと雨に溶けて養分になれや、という考え方に染まりきっていることだろう。最近も菅がジジョだのキョージョだの言っていたが、というかそもそも日本という国がずっとそんな感じで、国際協力とかいって再軍備を進めようとする保守(笑)派の方々はしきりに戦後日本を極東の端に転がった敗戦=平和国家という名のクソだという恥ずかしさによって、海の外に向けて自分たち(?)の身を差し出したがる。あるいは隣国の脅威とかいったものを持ち出すのだが、それも要は「何もしないまま負けるのはヤダ」というつまらない少年漫画の出来損ないみたいなプライド、恥の問題で、はっきり言って七十五年前に総力戦とかいって負けたものが、今になって再軍備により戦争できるようになったからといって勝てるとは到底思えない。それは国の国民に対する権限強化云々も、「脅威を前に何かしなくては」という点において同じで、最近も大真面目にアガンベンの誤読をして権限強化を主張する保守系議員がいたらしいが、むしろそっちの方が恥ずかしいとは思わないのだろうか。
    その絵本が本当に描くべきだったのは、公助の必要性と反差別の提示だったのではないか。いや表現は自由だけど。しかしツッコミどころが満載なのだ。雑草が育つためにはまず人の手が加わるべきだし、道端の犬の糞は処理しなかった人間がいたり、処理しきれない犬がいてそんな風に転がってしまっているのだから、処理する気がないのであれば(←しかし、この処理という考え方は絶対に人間に当てはめてはならない、ということをいちいち言わないといけないというのはウンザリする……わかるだろ普通)、それは糞自体のせいではないのだから蔑んだり疎んだりするのはよくない、という反差別的な考え方を、どうしてあの絵本は描けなかったのか。書名も作者名も思い出せないのに今さら憤ってもしょうがないが、絵本だから、おそらく私が幼いとき──つまり、あの自己責任ビタビタのゼロ年代の悪しき面の産物であることは間違いない。
    いや、本来は、上述のような「道端の犬の糞は処理しなかった人間いたり処理しきれない犬がいてそんな風に転がってしまっているのだから、処理する気がないのであれば(←しかし、この処理という考え方は絶対に人間に当てはめてはならない、ということをいちいち言わないといけないというのはウンザリする……わかるだろ普通)」という前置きもいらないのだ。それはあの犬の糞が作者によって「自分の存在意義を悩む」と設定されていたからで、本当のクソの悩みは、「自分がクソであることに恥ずかしい」という、まるで平日の昼間から窓辺に雨音を聴きながら部屋の端でうずくまって、社会やら環境やらをひたすら呪っている私の悩みのように、単純で素朴なものであったはずだ。それを他人(=雑草)が強引に存在意義の問題にすり替えることで、クソを養分にしようとする。だが、本当はそうではなく、私は今道端に転がるクソだ、あなたたちが軽蔑するクソだ、汚ならしい臭いクソ、死ぬ以外にはなんの役に立ちも生まれるべきじゃなかったクソだ──という私の存在を、あの絵本も私たちも肯定できるようになるべきではないかと思う。こんなクソでもただ生きている、というのが何故認められないんだろう?何故死んでまでも生まれた意味なんて問われなきゃいけないんだろう?こんな、問うだけなら私のようなバカでもできるような問いを、答えが導き出せないからという理由で、あるいは答えなんて本当はないということを知りたくないという恐怖からという理由で、私たちはすぐ手放してしまうのは何故なのだろう?
    やけに左翼っぽい文章になってしまった。
    どうやら私は左翼ではあるらしいのだ。ついこないだ政治主張の傾向を診断する質問みたいなのに答えたら(それだって本当は下らないけど)、私は「自由主義的社会主義者」であるとの結果が出た。中学の頃のあだ名が「右翼」だった身としては、そこから十年経ってとうとう「社会主義者」と呼ばれるまでになったか、と途方に暮れ暮れしてしまったが、たしかにこの十年はそんな十年だった。その終着点がここだ。私はクソだ。だが、本当は何が悪い?

全部、雨と祈りが悪いのだ。

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