4月29日(木)
怒りに任せて書く。今さらながらnoteに「就活体験記」というタグがあることを知るが、反吐が出る。就職に成功した者にとってそれは「体験」するものだったのか。一際記憶に残るだけの、一過性のものでしかなかったのか。つまり、noteの意識高い系な文章のネタになるレベルの話しかなかったのか。そんなものがこの就活という欺瞞だらけの、人を殺めるだけにあるような社会の規範を内側から崩すような言説になるわけがなく、せいぜいあるのは自分の苦労の肯定と、「試練を与えてくれて自分を成長させるきっかけになった」という社会へのわけのわからない感謝の念と、上から目線の祈りである。匿名で、自分の書きたいことを自由に書いて公表できるnoteなどのSNSやブログにおいて、なぜそういった規範側の言葉しか吐けないのか。なぜプライベートな文章で駄々をこねることすらできないのか。文句の言い方すら忘れてしまったのか。なぜ目の前にある社会から与えられた現実を、全部無理矢理ポジティブに受けとめようとするのか。最近私はみんながそういった糞な振る舞いをしているとき、自分を騙し騙し、仕方なくやっているとは、もはや思えなくなっている。アンタら、マジでそれが良いんだと思ってやってんだろ。つまりマジでバカなんだろ?そうとしか思えないのだ。なんでプライベートの次元(もはや、次元である)においてでさえ、就活を「体験」したと記しその規範そのものを疑うことをしないという奴隷根性を捨て去ることができないのか。そうやっても何も得することなんてないのに。それは、今や、あるいは元からそれを内面化していて、別の道を知らないからだ。
本当は、みんながバラバラな道を歩んでいるのがひとつの個としての人生であるというそのラディカルな多様性を、社会や制度や規範は認めてくれはしないことを、私たちは当たり前のことだとしながらも、バラバラな道を歩んでいる。そんなことは頭のおかしい奴のすることだ。私たちは規範的になればなるほどおかしくなっていく。どこからおかしくなっていったのかはわからない。だから突然死んだり、生まれたことやセックスを恨んだり、あるいはその正当性を補強するために自己責任だの成長だの言い出し、率先して規範の側に回る。「就活体験記」というnoteのタグが、就活という悪夢を「体験」で済ませようとするのは、生き残ったものたちの傲慢である。
生き残ったものたちが本当に文章でやるべきことは、死んでいったものたちの慰霊ではないか。それはバラバラの道を歩んでいるという境界線の自覚と、それを束ねようとする向きへの抵抗に他ならない。道はバラバラであり、私はあなたではないから、私の差し伸べた手も、言葉も届かないかもしれないが、それでも無数のあなた達がそこにいたことを私たちは知っている、という表明こそが言葉を紡ぐ理由として、私たちにはあるべきだ。私は就浪であるから、自分がその「生き残ったもの」か「死んでいったもの」かもわからない中途半端な生霊であることは自認しているが、ここで紡いだ言葉だけは、私がここで見た言葉による光景だけは、忘れることはないだろうと強く誓う。