4月27日(火)
昼にビックマックを食べる。昼にビックマックを食べている場合ではない気がする。冬の嫌いなところは昼間が短いところなので、最近はただ過ごしているだけで嬉しい季節になっている。明るさで時間を考えると、昼の短い冬場はその時間の流れの速度についていけない。1日のうち、太陽を一度も見ずに過ごすことすらも多々ある。
よくわからない会社説明会をWebで受けるが、URLが機能しなかったりリクナビの不調などで企業側に電話をする。こういうことが最近多くなる。やる気がどんどんなくなっていくのでやめていただきたい。
『メイスン&ディクスン』上巻を読み終え、次は下巻。
あいだいろ『地縛少年花子くん』15巻 Gファンタジーコミックスを買って読む。
……らしい。
別たれるものとしての死/生があったとして、生は死を想像するが、それだけしか人間はできないからこそ物語を描く。だが、物語のなかで生が死に接近し、コミュニケーションができてしまい、心が通じ合うかのように見えてしまった場合にこそ死/生の断絶は際立つ。それは物語にしかできない告発である。死者は死者自体においては「死んだ者」だが生者にとっては「死んだ生者」であり非-生者性が先立つ。『花子くん』で描かれる生者と死者は、その認識の解離に薄々気づきながらもどうすることもできない。たとえば15巻で、じゃがいもを買いに行ったまま亡くなってしまった三葉を遺された母や光は悼むが、当の三葉は幽霊としてミツバになり、自分の欲望(=光と友達になる)に関することしか考えることができない。死んだ理由に関する未練もそこにはない。つまり三葉/ミツバは、キャラクター造形や生→死の因果関係という物語を持ちながら生/死の二つに分離している。生から死という、生者において最大の命題を超えたキャラクターは、ひとつの物語のなかで存在を横滑りさせていくことができる。一方、生者は相も変わらず「死(者)とは、ああでもない……こうでもない……」と定義を常に追い求めながら同時に否定するシステムに追いやられている。『花子くん』で描かれる死/生の対立とは、物語のなかでのキャラクター間の関係性ではなく、キャラクターとして死/生という物語をどう捉えるかという方針の対立であり、10巻に、光がミツバに「オレも死んで ずっと一緒にいてやろうか そんで元の世界に戻ったら 一緒に普通の人間目指すか なァミツバ!!」と言いながら二人で飛び降り自殺をしようとする、作中最高ともいえる名シーンがあるが、あそこでのミツバの狼狽ぶりと、光の考え方の短絡さと生者としての傲慢さは、その対立をあらわす象徴的なシーンであると同時に、お互いがお互いのことをわからないからこそ生まれた物語のなかでわかり合うことを作者の操作で目指すことではなく、わかり合えなさを貫くことによって、生者と死者双方にアイデンティティを生み出そうとするこの作品の姿勢があらわれている──というのは、少し後ろ向きすぎる読みだろうか。だが死は常に後ろ向きなのだ。生→死という一直線のルートの絶望のなかから物語を出発させ、読者を読者たらしめるには、私はこれしか方法がないように思える。
『花子くん』には社会がほとんどない。多くのセカイ系作品の中では社会はセカイの当事者たちのための舞台装置としてあり、空気系・日常系には社会は言及されずとも空間的な背景として物語を形作る前提になる。この作品はどちらかといえば後者に属するのかもしれないが、死/生について語る上で背景となる社会は、一時的に再び物語の表舞台に引っ張り出されては、またしまい込まれる。テーマパークの外からゲストのように社会はやってきて、虚しさを発話して、また帰っていく。今巻はそれが際立っていた。それは問題点も大いにある描き方かもしれないが、死/生の埋まらないギャップのなかで物語の内/外も、登場人物同士のギャップも、あるいは読者と作者のギャップも埋まらないものであり、そのなかで個々のアイデンティティを誰もが同時に尊重し合うことで、作品はちゃんと生きている。私はもう、正しさより楽しさがほしい。乗り越えられないものを乗り越えようとして壁を無視するより、壁自体を愛して、抱き締めて、壁と共に抜け道を探す方に賭けたい。『花子くん』はその抜け道を描こうとする。壁を壁として、そこに自分の個を描く。それを読み合い、聴かせ合うときに生まれる齟齬。私たちはそうして物語を生かしていく。