5月3日(月)
『意味という病』読了し、次はさやわか『世界を物語として生きるために』青土社。
散歩を賛美する日記を書くくらいには落ち着かない一日だった。
何かしら論題がなければ気が済まないくせにディベートが壊滅的にヘタクソな人間が集まる(私ももちろんその一人であるにちがいない)SNSであるTwitterでの現在のトレンドのうち、キズナアイ騒動や宇崎ちゃん騒動や森発言騒動やショタドール騒動や学術会議の任命拒否騒動や呉座騒動やcakesの記事炎上騒動やポテトサラダ騒動やあいトリ騒動などに比べるとそんなに大きなものはなく疎らで、強いていえばここ一年半ずっとコロナが最大のトピックスなのだが、そのなかでもわりと大きめなものとして、教養の必要性をめぐる論争というクソみたいにくだらないものがある。Twitterの論争はいつもクソみたいにくだらない。そして間違いなく私もそのなかにいる。くだらないのは私たちなのだ。
事の発端は、男女二人で会ったときに教養がないと酒とセックスだけになるというツイートが炎上したことによる。まず教養ってなによ、というツッコミが多数寄せられ、またそんなもんに教養を使うな、という反論が多数。前者は、そのツイート主が「教養」としているものは人文学などで、科学や理系分野のことを「教養」としないのは不当ではないかというもので、いやツイート主とて、こんなに反響を得るだなんて思ってないから言葉足らずあるいは認識不足は仕方ないんじゃないかと思わなくもない。で、後者は、教養を得た先が結局恋愛などのコミュニケーションの道具にしかならないという貧困さを批判する。ただしこれもツイート主からすれば、「この道具はこういう使い方もあるよ」と提示しただけなのかもしれず、包丁は人を傷つけることもある、と言ったら料理の道具にそんなグロテスクな想像力を働かせるなんて……!と責められるのはあまりに窮屈すぎるとも言えなくもない。
さっきから「思わなくもない」「言えなくもない」と書いているのは、くだらないプラットホームにどっぷり浸かっている私もまた、その発端のツイートを一目見たときにかなり強い嫌悪感を持ったからで、上にあげた二つの種類を主とする批判側の意見(?)に基本的には同調している。たぶんいいねもしてる。私はそれくらいにはくだらないのである。
で、それはともかくとして、私が抱いた嫌悪感の一番の理由となったのは、そのツイートが「男女二人」の関係があることを自明なものとしているからだ。
これは私の奥底にある(と自分で思っているだけで実はドバドバ表出しているのかもしれない)非モテ根性が抱かせる嫌悪感でもあるが、何より、なぜ恋愛が良きものとされることそれ自体に違和感を覚えない「教養」があるとされているのか、という違和感である。私の考える「教養」は人とのつながりには「使える」かもしれないが、目的はそこにないのではないかと思う。「教養」と書くと気恥ずかしさを感じるので知的好奇心とも学問とも言い換えてもいいし読書でもあるし私の場合はやっぱり文学とかになるのだが、ともかくそういったものは、孤独を孤独のまま癒すものであると認識している。
つまり、オナニーである。オナニーの道具ではなく、オナニーそれそのものである。
だが、それの何が悪いのかがよくわからない。むしろ昨今のトレンドは、Twitterやマスメディアにおけるフェミニズム(?)の流行からも見てとるれるように、セックスやジェンダーの役割などの性の規範を疑問視する声が多数あがっているようにも見える──かと思いきや、実はそうではないことが、今回の論争めいたもので、改めてよくわかった。「教養」の価値を問う側も、信じる側も、否定する側も、皆「男女二人の関係」という規範は自明視した上で自分の立場を表明しているのだ。
もしあのツイートについて議論するとしたら、本当は「教養」の価値云々ではなく、男女の関係、あるいは恋愛というものを、「教養」にかかわらず何かしらの道具によって成功に結びつけ性交しなければならないという規範の方をまず疑うべきなのではないのか。今回の騒動で、言及する人を見るかぎりその観点でぶつくさ言っている人を見かけなかったが、そんなことを今さらぶつくさ言ってもしょうがないというのなら、今までの全ての論争だって「そんなことを今さらぶつくさ言ってもしょうがない」ものだろう。どうも昨今のフェミニズム(?)論争やモテ/非モテ論争やデータありきの男女論で双方の論陣が目しているところは、この抑圧的な恋愛・結婚・性愛至上主義をいかにフェア(と双方で思っているだけだが)な形で持続させるかというところにおける「ジェンダー平等」である気がする。恋愛はあり、交際はあり、セックスはある──という前提それ自体へのラディカルなツッコミみたいなのをせずに、ただ「教養」の価値のみをあーだこーだ言い合う光景は、ものすごく不気味である。本当にすべきことは議論によって規範と戦うことではなく、規範に個人的に抗いながら共生する自由の確保を、ネオリベ的な価値観に陥らずに紡いでいく方法の模索なのではないか。そのためには「今さら言ってもしょうがないそんなこと」を「ぶつくさ」言えるような言葉の確保であり、まさに私にとっての「教養」とはその言葉の在処であると考えている。
就浪をしていると、ラディカルに考えられずただ表面上だけの問題をその場しのぎで解決しようとする光景が不気味なものに映る。それは学生時代とかに「本質を見ないのはギマンだ」と喚く中二病的価値観ではなく、つまり怒りではなく、恐怖である。私をじわじわ殺しにくるのは、表面上だけの問題を俎上にあげる人々の口ぶりそれ自体であるというような気がしてならない。それは被害妄想かもしれないし、就職できたらこの恐怖心は消えるのかもしれないが、私にとっては被害妄想だって現実なのだ。今の私にとって、現実ではない妄想的非現実などはもはやどこにもないのである。