4月28日(水)
昼にビックマックを食べている場合ではなかったので、パルムにしておく。やはりおいしい。食べる者の口にも棒にも濃い甘さがまとわりつくという棒アイスの役目を果たしている。自分の役割をわきまえているお菓子というのは強い。森のせいで「わきまえる」という言葉自体がポリコレ的にNGワードになっているのだが(そんなポリコレは表面的なだけで何も変革し得ないと思うが)、やはり「わきまえる」は良い。社会にではなく、世界と自分の関係をわきまえることでその画定を目指すことは、持続性を補強することにつながる。いや、持続性なんていらない、常に壊して壊して壊して壊して……というやり方が理想なんだ、という人は、それでも生き残ったり何か良い方へ進むと信じている人だけだ。私にはついていけない。他人を見捨てるスクラップ&スクラップは他人を見捨てる持続性・保守性と、等しく無価値だが、私には恥ずかしながら教養がないので、今のところ他人を包括するスクラップ&スクラップというものを知らない。ただ、たとえ無教養だったとしても、自分のように好きなようにやれ、というだけでは無責任の謗りを免れざるを得ないことは私でもわかる。その無力感は最低限必要なのではないか。
大学受験、だけでなく、社会から与えられたタスクを乗り越えることに注力し、それこそが自分のアイデンティティであるとする向きがある。
こういう人を私が最初に観測したのは小学校のとき、中学受験に人生(計12年)を捧げている人たちで、でもそこで実際に捧げられているのは精神で、アイスをドカ食いして腹を壊したり、口唇ヘルペスを掻き壊して鼻と上唇の間が真っ黒になってたり、給食の時間に突然私を連れて校舎を徘徊し始めた人もいた。結果彼と私は廊下に立たされ、なぜか主犯の彼のみ解放され、私は説教を続行されその日の給食を食べることができなかった。私は小六のときの担任の女教師には苛められていて、よく廊下に立たされていたり机ごと廊下に出されたり、登校したら机や教科書がゴミ箱に刺さってたりした。
廊下に立たされるといえば、彼と同様に中学受験をした医者の子の同級生は私と理科室での授業中にじゃれていて、私の筆箱に当時大量につけられていたストラップを振り回し、塩酸の入っている試験管を倒し、向かいに座っていた女子にかかりそうだったという咎により、私とともに廊下に立たされていた。いつも廊下に立たされている私はともかく優等生の彼はどうなのかと顔を覗いたら、満面の笑みを浮かべていた。思えば、勉強してないときの彼はずっとニコニコ笑っていた。受験が終わった後の卒業遠足で、彼は私と同じ班だったが、ある時から班行動を外れてまでずっと絶叫マシンに乗っていた。私たちが止めようとすると怒りの表情を浮かべ、こちらが折れて絶叫マシンに一人乗ったときには笑顔に戻る。あれから十年以上が経って、彼は医者になっているのだろうか?
このように、中学受験の時点では、それによっておかしくなっていく同級生は「中学受験でおかしくなった」というキャラとして私たちのなかであるだけだったが、高校受験になると、そうはいかない。私たちもまたそれに含まれる。2月14日のために私たちは人格を変えなければならないのは、下手すれば、失敗してもいくらか潰しのきく大学受験よりも重大に捉える必要があったからでもある。馬鹿ゆえに志望校の高望みなどしていない私にすら、その規範のなかでは相応の振る舞いが求められる。だが、別に高望みをしてない分、切迫されるのがただ苦痛なだけという点は、就活と似ている。大学受験は日程さえ合って受験料さえ払えれば高望みをするのは自由だが、高校と就活は最低でもどこかに行かなければいけない、というのが社会のルールであり、それに乗れないと私のような屑として生きなければならない。ちなみに、死んではならない。屑になって粉になって風に乗って、奴らの肺を汚してやればいい。
となると、上掲の私の二つのツイートのうち、下のは少し間違いで、もしかしたら人生のおさえるべきところは全身全霊でおさえるべきだという風に、高校受験と就活のみに迫られて生きてきた人なのかもしれない。「そこそこ上位校」といってもそれは私から見た上位で、国公立や早慶上智一橋といったところの人ではないのだ。むしろ彼or彼女の人生は、「人生で最低限おさえるべき」ところに注力することしかできない平凡さに苛まれているのかもしれないと思うと、いくらか切なさがある。
といっても、それすらできなかった私にはそんなことは知ったこっちゃない。知ったこっちゃないのになぜ考えたのかは、日記を書いているうちに考えてしまったとしか言いようがない。日記、スゴい。
ただ、私たちがやるべきこととは、あの平凡さが社会からの強迫に苛まれ尽くした先の悲劇を、呆れたり嗤ったりするのではなく、それを生み出す社会をどうにか弾劾することではないか、と思う。あるいは、私たちもその悲劇のなかにいて、配役が違うだけなのかもしれないとき、私たちがすべきなのはその脚本を燃やす──だが、それはスクラップだけで何も救えない──ことだけではないとしたら、おそらくは、それをなんとかして書きかえることだ。