◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その7<完結編>
<以前の記事>
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その1|オロカメン (note.com)
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その2|オロカメン (note.com)
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その3|オロカメン (note.com)
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その4|オロカメン (note.com)
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その5|オロカメン (note.com)
◆読書日記.《ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』》――その6|オロカメン (note.com)
<2024年8月26日>
ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』読了。
以前の記事でも紹介したが、今回『論理哲学論考』を"読んだ"というのは、ちくま学芸文庫版・中平浩司/訳のものと、光文社古典新訳文庫版・丘沢静也/訳のもの、そして黒田亘/編訳の『世界の思想家23 ウィトゲンシュタイン』の内の『論考』の部分の三種類の翻訳を参考にし、更に副読本として野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』も同時並行で、合計4冊を使って『論考』を精読したという意味である。
やれやれ。と言う事で8月中には『論考』に片を付ける事ができそうだ。精読を始めたのが6月11日からだったので、およそ2か月半はかけてしまった事となる。
ちなみに、以前も言ったように『論考』は何年か昔に一度通読はしているのだが、その時は論理学に関する知識は皆無に近い状態だったので、読破したとは言っても、特に後半の記号論理学に関する議論については深く理解するという所までは行かずに済ませてしまっていた。
『論考』は以前の記事でも書いたように、ウィトゲンシュタイン自身の意図としては「論理的命題に関する作業は私の主要な論点からすればたんに付随的なこと」だと言ってはいるものの、このページ数の少ない思想書の後半ほとんどの議論が論理学に当てられているのである。
そのため、本書の後半で詳しく論じられる論理学の内容をほぼ理解せずにスルーしてしまうと、『論考』のほぼ半分ほどの記述は無意味となってしまう。
だからこそ、その後半の部分も含めて理解しない限りは自分の中で真の意味で「理解した」という納得が得られなかったわけである。
……と言う事で、特に後半の論理学に関する議論については、自分の蔵書の中のウィトゲンシュタイン関連本の記述を探し、ウェブサイト上の様々な記述や論文の内容を調べながら読み進めるという作業を行わなければならなかった。
いやはや、それにしてもこのくそ暑くて集中力が著しく下がっている時期に、ほぼ馴染みのない論理学の基礎から学びながらその意味を少しずつ理解していくのはたいへんな作業であった。
だがそのおかげで今回は、自分の中でもある程度納得のできるレベルで精読する事ができたという達成感は得られたのである。まったく、疲れた疲れた。
◆◆◆
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』はけっきょく何を言いたかった本なのか、と言われるならば、それについては既に以前のレビューで言いつくしたかもしれない。その認識は、読了後もほとんど修正する必要もなく、変わっていない。
いちおう今回は<完結編>と言う事なので、総括として『論考』の内容をざっとおさらいついでに分かり易くまとめておこう。
本書で主張されている事とは、簡単に言えば「人の言語は現実を反映しており、その構造は論理でできている。その論理で表現する事の出来る範囲が人間の思考の限界であり、その限界を越える事については言語で表現する事はできない」といった内容となるだろう。
ウィトゲンシュタインがこの『論考』で意図していた事とは「言語(=論理=人の思考)で表現できる事/出来ない事」の境界線をかっちりと引く事であり、その言語や思考の「限界内」の事とは「論理」で述べる事の出来る事に限られ、およそ論理で述べる事の出来る事は明確に述べる事ができるという事を示す事であったと言えるだろう。
そして、その限界の外にあるものについては「論理」の及ぶ範囲ではなく、そこについて言及するのは「論理」の効果範囲外であるため、全て背理なのであると言う事である。
それ故、その「論理の範囲外」にあるテーマについて論じた、今までの伝統的な西洋哲学の多くは誤謬を犯しているのだ……と言う事を暗に示しているという事も言えるだろう。
それが本書の最後に掲げられた命題であり、同時にウィトゲンシュタインの言葉としても最も有名な「7、語りえぬ事柄については沈黙すべきである。」という命題の意味なのである。
「沈黙すべきである」というのはウィトゲンシュタインの意図としては、その「言語の限界外」の事(=倫理学や美学、宗教的な観念)を否定しているわけでないのだが、『論考』に多大な影響を受けた論理実証主義者らはそうは受け取らず、だから「形而上学的な議論を哲学から排除するべきである」というその後の論理実証主義の主張に繋がっていく事になるのである。
ウィトゲンシュタインの意図にあったのは、むしろ「言語の限界外」の事(=倫理学や美学、宗教的な観念)については「沈黙と共に受け入れる」事であったと言えるだろう。
が、自ら「言語の限界外」と言っている通り、倫理学や美学といったテーマについて詳しい議論をする事は「背理」となる。だからこそ『論考』は人が論理的に語れる範囲内である、言語の構造をなす論理のほうの議論を綿密に論ぜざるを得なかったというわけだ。
だから一見、この本は「論理学について解説した内容」だという誤解が生まれたのである。というよりか、『論理哲学論考』に影響を受けた論理実証主義者たちは、ほぼそういう理解で本書を読んでいたようである。
◆◆◆
ところで、前回は命題「5.5」番台の前半まで読解を進めていたので、いちおう今回もその後の部分について重要だと思った部分や気になった所について解説やコメントをつけ、最後の最重要命題「7、語りえぬ事柄については沈黙すべきである。」までの流れを見ていきたいと思う。
前回の続き、命題「5.5」番台の後半については、ざっと以下のような議論が続く。
<5番台の後半の命題群のテーマ>
「5.52~」論理学での「すべて」という考え方について。「一般性」について。
「5.53~」対象が等しいものであること、イコール、等号の使い方。
「5.54~」命題が命題の中で登場するケース。
「5.55~」論理はあらゆる経験に先立っているアプリオリなものである。
「5.6~」言語と世界を限るもの、独我論について。
命題「5.52」から「5.5571」までの命題群は、基本的には「5.5」番台の前半と同じく論理学についての議論が続いている。
ちょっと異質なのは「5.6」から「5.641」までの命題群で論じられる独我論であろう。
ぼくが思うに、ここでは恐らく「論理」を語る上でのベース、基盤、スタンス、足場……といったようなものをしっかり規定しておこうという考えが出たのではないだろうか。
……と言ったように、この「5.6」番台の命題群からは急に「私」や「ソリプシズム(唯我論=独我論)」という話題が出てくる。
『論理哲学論考』における独我論については、主にこの部分を中心に展開される。そして、この部分に5番台の論理学で語られてきた事とはまた違った、ウィトゲンシュタインの思考傾向の一端が見えるのが面白い。
この一連の流れから見てみれば、命題「5.63」で言っている事は、本書で述べられている「世界」とは「客観的に実在している世界」というわけではなく、「私の世界(私という視点から見られた世界)」の意味であると言う事が分かる。
そのため「言語の限界」や「世界の限界」と言った場合、客観的に存在している世界に立脚した上での「限界」の事を言っているのではなく、あくまで「(私の)言語の限界」と言っているわけである。
これによって本書における「『論理』を語る上での基盤」が設定された事となる。
つまり、人間という存在がいなければ他に「言語(=論理)」という道具を利用する動物などいないわけで、だから「論理が(私の)世界を埋め尽くしている」という主張が出てくるわけである。
また、命題「5.61」に述べられている「論理においては、世界内にこれとこれとは存在するが、あれは存在しない、と語ることはできない。右のごとく語るとすれば、外見上、われわれが何らかの可能性を排除することを前提としていることになろうが、これは決してできることではない。できるとすれば、論理が世界の限界を越え出ていなければなるまいからであり、すなわち、論理が世界の限界を、この限界の外側からも眺めることができる、などということにしなければなるまいからである」という部分にも、ウィトゲンシュタインの思考傾向の一端が見られる。
ウィトゲンシュタインはしばしば、自己言及的な意味合いのあるものについて語る事は「不可能だ」という考え方をするのである。
これは、「"自分"を語ると言う事は、"自分の外"に出て自分の事を外側から認識しなければならない、などという事になる(だから、背理である)」といった考え方を持っているからでもある。
もっと言えばウィトゲンシュタインの思想傾向として、このように「内/外」という境界線をきっちりと引きたがる、という特徴も読み取る事ができる。
例えて言うならば「カメラは、カメラ自身を直接に撮影する事が出来ない」という考え方に基づいている。この場合カメラは、鏡や水面など間接的なものに頼って自らを撮影する事はできるかもしれないが、自分の外に出て自分自身を撮影する事などできない、といったイメージである。
これは「5.633」の命題でも同じように「世界のなかのどこで、形而上学的な主体に気づくことができるだろうか? その事情は目と視野の関係とまったく同じだと、君はいう。けれども目を君は、実際には見ていない。そして視野にあるどんなものからも、それが目に見られていることは推測されない」と「目と視野」という関係性として説明している。
この考え方は『論考』において「語れないもの」について説明する場合にしばしば現れる思考傾向なのだ。
例えばウィトゲンシュタインは「論理そのもの」については直接語る事は出来ない、としている。これは言語のベースとして「言語を成り立たせているもの」そのものこそが「論理」なのだから、論理について直接語る事は出来ない、と考えるわけである。
こういった何かしらの経験を成り立たせるためのベースとしてあるものをウィトゲンシュタインはしばしば「超越論的」という言葉で表現している。
この「超越論的」という言葉は、カントやフッサールが使っている意味とは、若干違っているようである。これについては野矢茂樹が詳しく説明している。
このような理由があるからこそ、ウィトゲンシュタインは「6.13」番で「論理は超越論的である」と言うように、論理そのものは語れないと主張するし、「6.421」番でも「倫理は超越論的である」と主張している。
つまり「倫理」も超越論的だから語りえないものだ、と言っているわけである。
「超越論的なもの」つまり私の世界のベースとなるもの、私の思考の世界をなりたたせる条件となるものは、ウィトゲンシュタインにとって「思考の限界」の境界線上にあるもので、だからこそそれを「外側」から見る事はできない。だから語れない、と考えるのである。
これらは上にも書いたように「独我論」というスタンスがあるからこそ出てくる発想でもあるだろう。
しかし「独我論」を語る事も自己言及にあたるわけで、これも超越論的なテーマとなる。主体は「私の世界」を成り立たせる条件なわけだから、ウィトゲンシュタインの設定する境界線上にある存在だと言って良いだろう。
ゆえに「主体」も世界には属していない、というわけである。
同様に、上に引用した「5.62」番でも「独我論」は「これは語ることがならず、おのずと示されるだけである」と主張されているのである。
超越論的な「語る事のできないもの」については、自分の目を直接見る事ができないように、直接語る事は出来ない。だから、それについての言及は「語っている」わけではなく、「示される」と言っているのである。
カメラが自らの姿を直接撮影する事は出来ないが、「カメラの映像が映っている」という事それ自体が、カメラの存在を示している……そんなイメージで理解すればいいだろう。
これについては色んな人も指摘しているが、やはり少々苦しい説明だと思わざるを得ない。
それでは実際、われわれは自分自身の事について「思考」する事は不可能なのか?そんな事はないだろう。現に様々に考えられている。
ウィトゲンシュタインの言いたい事は「論理的な対象として"自己"は対象たりえるか?」という事なのだろうとは思う。が、考えれば考える程『論考』の体系というものは、言及範囲を狭めていっていると思わざるを得ない。そして、いくぶん硬直的だ。
これはウィトゲンシュタインが、自ら構築した厳密な論理体系/言語体系の中から超越論的なものや形而上学的なものを締め出そうとしているのだ――という風に捉えると、論理実証主義者らと同じスタンスとなる。
彼の意図は、以前から主張しているように、その逆にあるとぼくは思っている。
論理体系/言語体系から超越論的なものや形而上学的なものを締め出しているのではない……逆に、超越論的なもの(=倫理学や美学、宗教的なもの)という、ウィトゲンシュタインからしてみれば「聖域」的な領域から、論理体系/言語体系のほうを締め出そうとしているのである。
芸術を愛するウィトゲンシュタインが、宗教的な考え方を持っているウィトゲンシュタインが――「論理」というメスでそれらを解剖する西洋哲学の伝統的な考え方を否定する戦略として、『論理哲学論考』という体系があるのではないかと思うのだ。
◆◆◆
と言う事で、これでやっと『論理哲学論考』も6番台に突入する事となる。
5番台はもっぱら論理学のルールが議論の中心となっていたが、6番台では論理学のルールも踏まえて、その他「世界の限界の内側」で何を語る事ができるのかと言う事で、語る事の出来るテーマを様々にあげて言及している。
これによって「論理」で語る事の出来る限界はどこまでなのかという事を内側から示そうというわけである。
まず、6番台最初の命題「6 真理函数の一般形式は、こうだ。[P ̄,ξ ̄,N(ξ ̄)] これは、命題の一般的な形式である」の意味は、N(ξ ̄)によって、真理函数で表現していた全ての操作「⊃(○○ならば○○)」「~(○○でない)」「∨(○○または○○)」「・(○○かつ○○)」が表現できるという事である。
全ての命題は[P ̄,ξ ̄,N(ξ ̄)]に、要素命題を与えれば導出する事が出来る。
「4.52」番の命題にも「要素命題のすべてから(そしてもちろん、それが要素命題のすべてだという事実もふくめて、そこから)全命題が導かれる。(それゆえ、ある意味では、すべての命題は要素命題の一般化であると言うことができる。)」とある通りである。
これが『論理哲学論考』における命題の論理学の体系を表しているシンボルとなっているのである。だからこそ、この形式[P ̄,ξ ̄,N(ξ ̄)]が命題「6」番台の先頭に位置しているのだろう。
続く「6.2」番台から後の命題群について、例の如くざっとそれぞれで触れられているテーマを記しておこう。
<6.2番台以降の命題群のテーマ>
「6.1~」 論理学の命題はトートロジーである
「6.2~」 数学について
「6.33~6.3432」 力学・物理学について
「6.35」 幾何学について
「6.362~6.36311」 物理法則と記述できるもの/記述できないもの
「6.37~」 未来予想は不可能である。世界は私の意志から独立している。存在するのはただ、論理的必然性のみである。
このように、6番台の前半は世界の限界の内部で「語る事の出来るテーマ」というものをいくつかピックアップして説明している。数学について、力学、物理学について、幾何学、物理法則についてなどなどである。
この命題群の先頭に「6.1 論理学の命題はトートロジーである」という命題が来ているのには理由がある。
論理学の命題がトートロジーであるように、数学も力学も幾何学も、およそ「世界の内部」において論理的に言及できる事というのは、全て基本的に「トートロジー」であるからである。
この「トートロジー」という概念を確立させたというのは「『論理学の革命』へのヴィトゲンシュタインの最大の貢献(野家啓一)」だったと言われている。
そして、ウィトゲンシュタインが扱う「論理学」の体系の特徴の一つでもあるのがこの「トートロジー」だったとも言えるだろう。
……それにしても、この命題「6.1 論理学の命題はトートロジーである」の意味を調べるため、この夏はかなりの時間を割いて、ネット上で論理学関連のサイトを渡り歩いて、この意味を調べまくる事となってしまった。
おそらく、今回『論考』を精読する上で、最も時間をかけたのが論理学におけるトートロジーについて調べる事であった。
しかし、ぼくが見るに「6.1」の命題は『論考』の中でも重要なポイントであり、論理学の方面でもしばしば言及されているようであったので、これを避けて通る事は出来なかったのである。おかげで、だいたいのイメージが固まったように思える。
「トートロジー(同語反復)」とは、どのような値が入れられようとも真になる命題の事である。
例えば「AまたはAではない」という命題の「A」にどんな言葉を入れてもこの命題の答えは「真」意外にありえない。
その他にも「もしAならば、結果はAである。Aだ。ゆえにAである」や「AかつBである。ゆえにAである(Aを含意する)」や「"Aではない"は違っている、ゆえにAである」なども同様にトートロジーである。
で、論理や自然科学、数学においてさえ、トートロジーによってその正当性が証明させられる。
つまり、トートロジーの持っている「無矛盾性」こそが論理の証明だと言えるのだ。妥当な推論であり、必然性のある答えを導き出す様な命題というのは「トートロジー」なのである、というわけである。
数学がトートロジーなのは数式を「=」で結ぶからだと言われる。
例えば「2+3=5」といった式の場合、「=」の左側の値と右側の値は、両方とも同じ値を意味している。「2+3=1+4」の場合も同じで、これは「=」の左側も右側も、いずれも「5」という値の、別の表現でしかない。
命題にしてみると「5は5である」と言っているようなものだ。この記号ルールの体系が「無矛盾」であるからこそ数学が論理的に正しい体系であるという証拠となっている。
この同語反復の法則と言うのは、力学や幾何学などにも同じように適応されるという事を『論考』では「6.33~6.3432」番台や「6.35」番の命題で解説しているわけである。
このトートロジーの特徴とは、ウィトゲンシュタインからしてみると「何も言っていないこと」にある、という。
つまり、「当たり前の事を当たり前に言っている事」こそが無矛盾性の証しであり、それが「論理的に筋が通っている」ということ、すなわちトートロジーなのである。
論理学の命題はトートロジーであり、それのみでは何も語らない。
例えば「演繹法」もトートロジーの一つだが、演繹法がトートロジーの一種であるという事は、すなわち演繹法も「何も語らない」と言える。
演繹法は簡単に言えば一般的な法則や普遍的な原則などを個別の事柄に適用させて結論を導く推論の方法だが、例えば、演繹法の代表例は三段論法がある。具体例を示そう。
(大前提)全ての人間は死ぬものである。
(小前提)ソクラテスは人間である。
(結論)故にソクラテスはいつか死ぬ。
演繹法がトートロジーであるのは「結論」として導き出された答えというのが、既に「大前提」の中に含まれているからだ、という風に言われる。
ざっくばらんな言い方で言えば「『ソクラテスはいつか死ぬ』なんて事を改めて言われなくても、そんな事は既に「大前提」の中で言っている事でしょ?」という事である。
前提で言っている事の一部をとり出して、それを「結論」という形で繰り返している……というのが「演繹法はトートロジーである」という事の意味なのである。
妥当な推論とはトートロジーであり、それのみでは何も語っていないとは、こういう事なのである。前提に対して、何も新しい情報が追加されていない。
だが「何も語らない」からといって、それが「無意味」というわけでもない。
「6.111」番の命題に「論理学の命題はいまや完全に自然科学の命題の性格を得てしまう」とあるように、6番台の命題群に至って『論理哲学論考』の体系はまさしく、この世には「非論理的な事などない」と宣言するに至る。
いわゆる京極夏彦の作品に出てくるキャラクターが言う所の「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」と同じ事を言っているわけだ。
だが、このようなトートロジーの考え方を採用しているからこそ、この『論考』の体系は命題「6.31」番で「いわゆる帰納法則はとにかく論理の法則ではありえない」と主張しているように、論理学で言う所の「帰納法」を排除してしまうのである。
ウィトゲンシュタインが命題「6.36311」番で示している例えが「帰納法」のひとつだと言えるだろう。
帰納法は様々な具体的な事柄から推論して、一般的な法則や普遍的な原則を導きだす推論の方法である。ウィトゲンシュタインの例を使うと、次のようになる。
(観察1)今朝、太陽が昇った。
(観察2)昨日も太陽が昇った。
(観察3)一昨日も太陽が昇った。
(結論)ゆえに、明日も太陽は昇るだろう。
言わば帰納法は全て経験に基づく命題を元にして推論し「予想をたてる」事だと言えるのかもしれない。それはあくまで「仮説」であって「あしたも太陽が昇る事を"私たちが知っている"」わけではない。
……ここら辺が、ウィトゲンシュタインが帰納法的な考え方を「迷信である」と断ずる理由なのだろう。
帰納法はトートロジーではない。様々な経験、観察から、新たな情報を生み出していくためにそれは同語反復とはなり得ない。仮説を打ち立てていくものだから、それは真実というわけではない。帰納法の本質は「論理的」なのではなく「心理的なもの」である……というのがウィトゲンシュタインの考え方であった。
だから、ウィトゲンシュタインが考える「論理」というものは、あくまで「演繹法」にみられるようなトートロジーが本質としてあるのだ、と主張しているのである。
かくて、『論理哲学論考』の体系内ではどんどん言及できる範囲が狭まっていく事となる。
どうしてか?
上でも述べたように、これはウィトゲンシュタインが「倫理学」や「美学」「宗教」といった自らにとって重要な領域のほうを「哲学的な語り」から守るために、論理で語る事のできる範囲のほうを絞って行っているからではないか、と思うのである。
『草稿』のようなウィトゲンシュタインのプライベートでの原稿を見てみればわかるように、ウィトゲンシュタインという人間は、『論考』の論理学のイメージとはうらはらに、非常に「宗教的」な思想の持ち主なのである。
◆◆◆
<6.4~6.5番台以降の命題群のテーマ>
「6.4~」 倫理学について。全ての命題は等価(価値の優劣を決める事は出来ない)であり、それゆえ倫理学の命題も存在しえない。
「6.43~」 人生と死について、世界について、神秘について
「6.5~6.522」 「謎」は存在しない。
この命題群を読んで奇妙な気持ちになる人もいるのではないかと思われる。
これまでさんざん抽象的な論理学の議論を展開してきて、ここにきていきなり形而上学的な事について触れ始めているからである。
このシークエンスが奇妙に感じるのは、ウィトゲンシュタインが最後の命題「7 語りえぬことについては,沈黙するしかない。」の前フリとして、世界の内部の、その境界線ぎりぎりの所まで行き、どこまでが語る事が出来る限界線なのか、それを計っているような所があるからなのかもしれない。
つまり、なぜ倫理は「語りえない」のか、私の死は「(私の)世界」とどう関係があるのか、世界の意味とは……といった問題群である。
この境界線上の議論については、ウィトゲンシュタインははっきりとした基準を持っていたに違いない。それが次の命題に現れている。
この命題「6.5」番でも言っている通り、世界に「謎は存在しない」のである。
何故なら、われわれの思考できる「言語(=論理)の限界」の内側は論理で満たされ、その論理の本質とは「トートロジー」……つまり当たり前の事が当たり前にある、全く無矛盾的な世界だからである。
世界に謎は一切ない。
何故ならば、論理によって語る事のできない「非論理的なこと」は、われわれの思考の限界外にある事だからである。
だから、この世界で語れる事はおよそ明確に語る事が出来るし、それ以外の事は論理の範囲外の事なのだから、語る事はできない。語る事の不可能な事について語ろうというのは、端的にナンセンス(無意味)なのである。
そして、倫理学も美学も『論理哲学論考』の論理体系の、外側に位置するのである。
そして、命題「6.53」番は、命題「7」番「語りえぬことについては,沈黙するしかない」の前フリとしては非常に重要な一文となっていると言えるだろう。
「誰かが形而上学的なことを語ろうとしたら、彼が自分の命題の中の記号に何の意味も与えていないことを指摘してやる」――おさらいをすれば、論理の本質であるトートロジーは「何も語っていない」ものではあるものの「無意味ではない」。
それに対して「彼が自分の(彼が"彼自身の世界"の中の)命題の中の記号に何の意味も与えていない(=無意味である)ことを指摘してやる」事は、「形而上学的なこと(=論理の及ぶ限界外のこと)」を語る人物の誤謬を正す事になる、というわけである。
そして、「論理」的に語ってきた『論理哲学論考』の命題群は、その「何も語っていない」トートロジーの法則に従ってきたがために、その全ての体系は「何も語っていない」命題群で成り立っていたという事が命題「6.54」に至って判明する。
曰く「この本の命題がなにごとかを解き明かすとすれば、それは私を理解する人がこの諸命題を伝ってその上に立ち、さらに乗り越えて、結局これらは無意義であると認識することによってである」。
そして、「語りえないこと」について、これ以上『論考』の中で詳しく論じる事は、自ら「語りえない」と言っているだけに背理となる。ゆえに「語りえぬこと」についての話題に突入する命題「7」は、必然的に一文だけで終了しなければならなかったわけである。