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熊野に神います~熊野の神をご一緒に

「熊野に神います」というフレーズは、984年に源為憲(みなもとのためのり)が、冷泉(れいぜい)天皇の皇女尊子(そんし)内親王のいわば仏教入門書として書いた三宝絵詞(さんぽうえことば)に登場します。 彼女は後に那智で修行したとされる花山(かざん)天皇の同母姉です。原文は「紀伊国牟婁郡に神います」ですが、これを少し変えてブログのタイトルにしました。原文ではこの後、神の名前が出てきますが、それは改めてにします。牟婁(むろ)郡は、現在の行政では、三重県に南北、和歌山県に東西の牟婁郡が

    • 聖徳太子の墓を巡る出来事ー乗如の石室参拝 

       寛政2年(1790)に東本願寺の乗如(じょうにょ)が石室を参拝して図面を残しています。乗如は乗如上人と尊称される東本願寺第19代法主。法主(ほうしゅ、ほっす)とは、仏教において教義を護持して教えの中心となる人物を言い、そこから転じて宗派▪︎教団の最高指導者を指します。したがって乗如は東本願寺のトップであったということです。乗如は、延享元年(1744)に東本願寺第17代真如(しんにょ)の第8子(五男)として生まれ、第18代従如(じゅうにょ)の後継者となり、従如が亡くなったため

      • 聖徳太子の墓を巡る出来事ー結界石と兵士の乱入

         聖徳太子墓とされる「磯長墓」を訪ねると、墳丘の裾に内外二段の石の柱が立っているのを目にします。これは「結界石」と呼ばれるもので、神聖な墓域と俗界を隔てる役割をしています。  内側の列石は「中段結界石」と呼ばれ、448基が確認されています。流紋岩質凝灰岩製の方柱で、石の頭部には聖観音を意味する梵字1字が陰刻されています。柱のサイズは高さ約100cm、幅約30cm、奥行約20cmです。この結界石が立てられた理由として、太子自身が運んだとする伝説、また、空海が寄進したとする伝説が

        • 玄室の棺台は「品」の字の形に配置

           聖徳太子の墓は宮内庁が管理していますから、内部に立ち入ることはできませんが、江戸時代にはそういう制限はありませんでしたから、内部に入った人の記録が残されています。それによると棺は残っていませんが、棺の残片があり、夾紵棺であるとされています。棺はありませんが、棺を載せていた棺台が3基あります。これは聖徳太子の墓には太子本人と、母と妃を合葬したという記録に合致します。なお、大阪府立近つ飛鳥博物館では石室内部の様子が実物大の推定復元模型で展示されています。  玄室の一番奥にある「

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          聖徳太子の墓ー石室が岩屋山古墳に類似

           聖徳太子の墓の埋葬施設の玄室や羨道は現在は閉じらていて内部はわかりませんが、中世▪︎近世までは立ち入ることができ、内部の様子を記した資料が残っています。宮内庁書陵部ではこれらの資料と、明治12年(1879)に行われた調査で作成された「聖徳太子磯長墓実検記」、さらに近年の調査結果を合わせて石室の規模を推測しています。このデータはウィキペディアに載っていますので、関心のある方はそちらをご覧ください。  聖徳太子の墓の石室構造は、明日香村にある岩屋山古墳と類似しているといわれてい

          聖徳太子の墓ー石室が岩屋山古墳に類似

          三人が埋葬された聖徳太子の墓ーその概要

           聖徳太子の墓は、考古学上では「叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)」と言い、その名前の通り叡福寺境内の北側にあります。宮内庁では「磯長墓(しながのはか)」と称しています。この墓に太子本人と、母親の穴穂部間人皇女、妃の菩岐々美郎女が葬られていることから、「三骨一廟」と呼ばれています。  この墓は大阪府南部、二上山麓の磯長谷の北から伸びる丘陵の先端部南斜面に南面して築造されており、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇陵とともに磯長古墳群を構成し、「梅鉢御陵」と言われます。これ

          三人が埋葬された聖徳太子の墓ーその概要

          聖徳太子が亡くなったのは飽波葦垣宮

           聖徳太子が晩年を過ごし、また亡くなったのは「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」です。この宮の伝承地は斑鳩町法隆寺南3ー5ー20にあった成福寺とされています。過去形になっているのは、現在この寺は廃寺になっており、フェンスで囲われていて入ることはできません。この寺には本堂と竜宮門があり、本堂には聖徳太子16歳の像が祀られていました。この像はどうなったのでしょうかね。法隆寺に伝えられてきた『古今目録抄(ここんもくろくしょう)』に「葦垣宮にて崩じ給う」とあり、また『大安寺伽藍縁

          聖徳太子が亡くなったのは飽波葦垣宮

          法隆寺金堂本尊釈迦三尊像造立の由来

           法隆寺金堂に祀られる釈迦三尊像については、その光背に造立の経緯を記した銘文があり、そこに菩岐々美郎女の名前があります。その銘文です。 法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗●(よ、余の下に心)。于食王后仍以労疾、逆著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘

          法隆寺金堂本尊釈迦三尊像造立の由来

          聖徳太子の最愛の妃は膳傾子の娘

           『日本書紀』巻第二十一、崇峻天皇前紀によると、膳傾子は蘇我馬子と物部守屋との戦いにおいて馬子の側につき、戦いが決着した後、蘇我氏の血統を引く皇族に接近して娘を嫁がせます。聖徳太子の妃となった膳部菩岐々美郎女(かしわでのほほきみのいらつめ)と、聖徳太子の弟の来目皇子の妃となった彼女の妹の比里古郎女(ひりこのいらつめ)です。  膳部菩岐々美郎女(?~622年)は、膳大娘(女)、高橋妃などとも書かれます。推古天皇6年(598)に聖徳太子の妃となり、太子との間に四男四女をもうけます

          聖徳太子の最愛の妃は膳傾子の娘

          藤ノ木古墳の被葬者の説がある膳傾子の1ー高句麗の使者と会う

           膳傾子(かしわでのかたぶこ、生没年不詳。6世紀後半の人物)は、『日本書紀』崇峻天皇即位前紀には「膳臣賀托夫」、『上宮聖徳法王帝説』では「膳臣加多夫古」と書かれています。ウィキペディアによると傾子は藤ノ木古墳の被葬者だとする説があるとなっています。  膳傾子は『日本書紀』欽明天皇31年5月の条に登場します。その内容は、遣膳臣傾子於越、饗高麗使、傾子、此云舸陀部古。大使審知膳臣是皇華使、乃謂道君曰「汝非天皇、果如我疑。汝既伏拜膳臣、倍復足知百姓、而前許余、取調入己。宜速還之、莫

          藤ノ木古墳の被葬者の説がある膳傾子の1ー高句麗の使者と会う

          外交で活躍した膳氏ー斑鳩と巴提便

           膳氏にはまた、軍事や外交で活躍した人物が多く存在します。雄略天皇時代(推定464年)の膳斑鳩、欽明天皇の時代(推定545年)の膳巴提便、欽明天皇31年(推定570年)の膳傾子、推古天皇18年(611)の膳大伴らがそれに当たります。  膳斑鳩(かしわでのいかるが、生没年不詳。5世紀後半の人物)は、新羅が高句麗軍の侵入を受け、加羅に救援を求めた時に、任那日本府が派遣したうちの一人。他に吉備臣小梨(きびのおみおなし)、難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)らがいます。加羅(伽耶、

          外交で活躍した膳氏ー斑鳩と巴提便

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説ー中小豪族説(膳氏の2ー天皇の料理番)

           膳氏の始祖の磐鹿六鴈(雁)命を祀る神社には、千葉県南房総市千倉町(ちくらちょう)南朝夷(みなみあさい)164にある高家(たかべ)神社、栃木県小山市高椅(たかはし)702の高椅(たかはし)神社、奈良市八条(はちじょう)5丁目338の高橋神社があります。いずれも式内社です。   上記3社の中で、小山市の高椅神社の社伝によると、当社は景行天皇41年日本武尊が東征の際に当地で国常立尊▪︎天鏡尊▪︎天萬尊を勧請し、戦勝を祈願したのが始まりで、その後、景行天皇が日本武尊の東征の戦跡を巡

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説ー中小豪族説(膳氏の2ー天皇の料理番)

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その3中小豪族説(山部氏と膳氏の1)

           山部氏(やまべうじ)は大和国平群郡(へぐりぐん)山部郷を本拠地としていたとあります。平群の名前は現在は生駒郡平群町にその名を留めています。平群という郡名は今はありません。古代の平群郡はその範囲が広く、斑鳩町も含まれる現在の生駒郡全域と大和郡山市や生駒市の一部に相当します。  山部(やまべ)または山守部(やまもりべ)は、朝廷直轄の山林の管理やそこから採れる産物を朝廷に貢納する職業集団(品部、ともべ)と彼らを管掌する氏族のことをさします。  山部氏と聖徳太子との関係について、仁

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その3中小豪族説(山部氏と膳氏の1)

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その3中小豪族説(大原氏と額田部氏)

            3つ目の説は、斑鳩に関係すると考えられている中小豪族説です。聖徳太子の妃の一人であった膳菩岐々美郎女の出自氏族である膳氏に膳臣斑鳩という人物がいたことや、斑鳩に盤踞していたとし、聖徳太子の斑鳩への移住の背景となっていたとされる膳氏、藤ノ木古墳所在地が古代における平群郡山部郷にあることからの山部氏、立派な金銅製馬具が出土したことから斑鳩の南東方向に盤踞していた額田部氏、古代の文書から斑鳩に居たとされる大原氏など多くの説があります。となっています。   この説は藤ノ木古墳があ

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その3中小豪族説(大原氏と額田部氏)

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その2(大豪族関係者説)

           藤ノ木古墳の被葬者について、法隆寺の古文書の一つの「宝積寺境内図」に「崇峻天皇廟」と書かれており、法隆寺ではこの古墳を崇峻天皇の御陵として「ミササギ」や「陵山」と呼んで、崇峻天皇に対して供養を行い大切に守ってきたという歴史があります。どうしてこの古墳が崇峻天皇陵とみなされるようになったかはよくわかりません。『日本書紀』には倉梯岡に埋葬したとはっきり書いています。また崇峻天皇は合葬されたという記録もありません。崇峻天皇は東漢直駒に暗殺されてすぐに埋葬されていますから、誰かもう

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その2(大豪族関係者説)

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その1皇族説(崇峻天皇陵と赤坂天王山古墳)

           第32代崇峻(すしゅん)天皇陵は、宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋(くらはし)にある「倉梯岡陵(くらはしおかのみささぎ)」と治定されています。宮内庁では円丘としています。アクセスはJR▪︎近鉄「桜井駅」からバス「倉橋」下車すぐ。  崇峻天皇は臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇で、暗殺者は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)。『日本書紀』の崇峻天皇五年の条には次のように書かれています。十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑

          藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その1皇族説(崇峻天皇陵と赤坂天王山古墳)