藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説ー中小豪族説(膳氏の2ー天皇の料理番)
膳氏の始祖の磐鹿六鴈(雁)命を祀る神社には、千葉県南房総市千倉町(ちくらちょう)南朝夷(みなみあさい)164にある高家(たかべ)神社、栃木県小山市高椅(たかはし)702の高椅(たかはし)神社、奈良市八条(はちじょう)5丁目338の高橋神社があります。いずれも式内社です。
上記3社の中で、小山市の高椅神社の社伝によると、当社は景行天皇41年日本武尊が東征の際に当地で国常立尊▪︎天鏡尊▪︎天萬尊を勧請し、戦勝を祈願したのが始まりで、その後、景行天皇が日本武尊の東征の戦跡を巡視された際、膳臣であった磐鹿六雁命は老齢のため天皇の許しを得てこの地に留まり、天武天皇12年(684)に当地を支配した磐鹿六雁命の末裔高橋氏が高橋朝臣の姓を授けられたその年に、日本武尊が祀った神に加えて祖神の磐鹿六雁命を合祀して高椅神社と称したと伝えています。この社伝にあるように、膳臣の一族が後に高橋を名乗ります。その高橋氏が宮内省内膳司として仕えていた時に同僚の安曇氏(あずみうじ)との間に勢力争いが起こり、高橋氏側が古来の伝承を朝廷に奏上したのが『高橋氏文(たかはしうじぶみ)』です。延暦8年(789)に完成されたと思われますが、原本は伝わらず、逸文が『本朝月令(ほんちょうげつれい、平安時代中期における年中行事の起源や沿革、内容を纏めた現存最古の公事書。全4巻のうち現存するのは第2巻のみ)』や『政事要略(せいじようりゃく。平安時代の政務運営に関する事例を掲げた書。編者は惟宗充亮〈これむねのまさすけ、ただすけ〉で、彼は明法道の権威者)』などに引用されています。
膳氏が天皇の供御の料、供饌の事に奉仕したことは、履中天皇の時の膳余磯、雄略天皇の時の膳長野、安閑天皇の時の膳大麻呂などの名前が記録に残っています。膳余磯(かしわでのあわし、生没年不詳)は、稚桜部余磯(わかさくらべのあわし)とも言い、5世紀前半の豪族。『日本書紀』によると、履中天皇2年に磐余池が築造され、翌年の冬、天皇は池に船を浮かべて遊宴をしたときに酒を献じたのが余磯です。『先代旧事本紀』「国造本紀」の若狭国造の項目に、「遠飛鳥朝(允恭天皇)御代、膳臣祖佐白米命(さしろよねのみこと)児荒礪命(あらとのみこと)賜国造を定む」とあり、初代若狭国造とされています。膳長野(かしわでのなかの)は、雄略天皇が母の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の勧めで、鳥獣の肉を料理する役目の宍人部(ししひとべ)を設置することになったとき、皇太后が第一番目に推薦した人物です。膳大麻呂(かしわでのおおまろ、生没年不詳。6世紀前半の人物)は、『日本書紀』巻18安閑天皇紀に内膳卿(ないぜんし、うちのかしわでのつかさ)とあり、彼は勅命を受け、使者を派遣して伊甚(いじみ)に珠(真珠)を求めましたが、国造の到着が遅れ、それに激怒した大麻呂は国造らを捕らえて詰問をしたため、その剣幕を畏れた国造の伊甚稚子(いじみのわくご)は後宮の寝殿に逃げ込み、安閑天皇の皇后の春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)を驚かせ気絶させてしまいました。その結果、稚子らは重い罪に問われることになりましたが、伊甚屯倉を皇后のために寄進するということで決着しました。伊甚国造は、後の上総国上埴生郡(かみはぶぐん、現在の千葉県茂原市とその周辺)を支配した国造で、「国造本紀」では成務天皇の代に安房国造の祖の孫の伊己侶止直を国造に定めたとあり、『古事記』では天之菩卑能命(アメノホヒ)の子建比良鳥命(タケヒラトリ)を伊自牟国造の祖としています。