法隆寺金堂本尊釈迦三尊像造立の由来
法隆寺金堂に祀られる釈迦三尊像については、その光背に造立の経緯を記した銘文があり、そこに菩岐々美郎女の名前があります。その銘文です。
法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗●(よ、余の下に心)。于食王后仍以労疾、逆著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。とあります。
ウィキペディアには、この銘文の訳が載っています。それによると、推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母▪︎穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃▪︎膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人▪︎王子▪︎諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせたというのが、この光背銘の大意であるとしています。
光背銘の原文では、聖徳太子の母を前太后と表し、聖徳太子も上宮法皇、菩岐々美郎女を王后と表現しております。この釈迦三尊像は、太子の母が12月に亡くなり、また翌月には太子が病気になったため、病気平癒のために菩岐々美郎女とその子供ならびに臣下が釈迦像を造ることを発願しましたが、菩岐々美郎女も病気になり、2月21日に亡くなり、そして翌日には太子も亡くなってしまいました。しかしこの発願により、釈迦三尊像は2年後に止利仏師の手により完成されたということです。この釈迦三尊像が菩岐々美郎女の発願により造られたということに、太子を思う彼女の気持ちが表れています。
この銘文の内容についてはウィキペディアに詳しく書かれていますから、関心のある方はそちらをご覧ください。
この光背銘には後世の追刻とする説があります。その真偽はともかくとして、文章としては非常に格調が高く、14字14行と字数と行数を整えた例は中国の墓誌にみられます。文字は中国の5~6世紀頃の書風を伝えています。
この釈迦三尊像は国宝に指定されています。指定名称は「銅造釈迦如来及両脇侍像」。金堂「中の間」の本尊。内陣中央部、木造三重の箱形台座の上に、中尊の釈迦如来坐像と両脇侍が安置されています。三尊全体の背後に大型の蓮弁形光背があり、これとは別に両脇侍はそれぞれ宝珠形の光背(頭光)を負います。銅造鍍金で像高は中尊が87.5cm、右脇侍(向かって左)が92.3cm、左脇侍(向かって右)が93.9cm、台座は総高205.2cm、光背高さは177cmで、台座の最下部から光背の最上部までの高さは382.2cmあります。