藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その1皇族説(崇峻天皇陵と赤坂天王山古墳)

 第32代崇峻(すしゅん)天皇陵は、宮内庁により奈良県桜井市大字倉橋(くらはし)にある「倉梯岡陵(くらはしおかのみささぎ)」と治定されています。宮内庁では円丘としています。アクセスはJR▪︎近鉄「桜井駅」からバス「倉橋」下車すぐ。
 崇峻天皇は臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇で、暗殺者は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)。『日本書紀』の崇峻天皇五年の条には次のように書かれています。十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。是日、葬天皇于倉梯岡陵。とあり、殺害された天皇はその日のうちに埋葬されたとなっています。
 『延喜式』諸陵式には「無陵地并無戸」とあり、『陵墓要覧』では所在地を倉橋字金福寺としています。 
 現在、崇峻天皇陵は天皇の皇居があったとされる倉梯柴垣宮(くらはししばがきのみや)の旧地と伝えられてきた倉橋の小字「天皇屋敷」にあり、同地に崇峻天皇の位牌を祀る金福寺(きんぷくじ)があることから陵地として決定されました。明治9年(1876)、奈良県十市(とおいち)郡倉橋村にあった雀塚と呼ばれる古墳が一旦治定されましたが、根拠に乏しいとされ明治22年(1889)に現在の陵墓が設定されました。金福寺は倉橋の寺川西岸に所在し、柴垣山と言う会所寺。本尊は阿弥陀如来。寺地付近には崇峻天皇の皇居や御陵があります。
 前章では赤阪となっていますが、一般的には赤坂天王山古墳と書かれています。赤坂天王山古墳群の中の1号墳が実際の崇峻天皇陵ではないかとの説があります。この古墳は国の史跡に指定されています(指定名称は「天王山古墳」)。この古墳は多武峰(とうのみね)から北西に延びる尾根の先端に築かれており、墳丘や石室、石棺の実測調査は行われていますが、発掘調査は行われていないため出土品は明らかでなく、石棺内も盗掘によって遺物が残っていません。石室構造や石棺の形式などから築造時期は6世紀末から7世紀初頭と見られています。墳丘は3段築成で、墳形は方墳。サイズ北辺約50.5m、南辺約43.2m、東辺約46.5m、西辺約47m。頂上部は1辺10m前後の平坦となっています。各段の斜面には葺き石が施されていますが、埴輪は見当たりません。石室中央には二上山の白石凝灰岩製の刳抜式家形石棺が置かれ、蓋と身を別個に作って組み合わせています。石室は花崗岩の自然石で構成されています。
 この古墳の被葬者については、『日本書紀』に崇峻天皇が暗殺された後に倉梯の地に葬むられたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものはこの古墳以外には見当たらないため、明治時代に南西に1.7kmほど離れたところにある現在の崇峻天皇陵が治定されるまでは崇峻天皇陵に擬せられていました。近ごろではこの古墳を崇峻陵とする森浩一氏の見解が有力視されています。 
崇峻天皇陵や赤坂天王山古墳のある倉橋へのアクセスは、桜井駅南口からコミュニティバス(奈良交通が運行)の多武峰▪︎談山神社行きのバスを利用します。
森浩一(もりこういち、1928~2013)氏は同志社大学名誉教授。専門は日本考古学▪︎日本文化史学。大阪市出身。少年時代に堺市の百舌鳥古墳群を通じて古墳及び陵墓への関心を抱き、1951年同志社大学文学部英文学科卒業。その後大学院に進みます。大阪府立泉大津高校、関西大学講師を経て、1965年同志社大学講師となり、1999年退職し名誉教授になりました。



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