三人が埋葬された聖徳太子の墓ーその概要
聖徳太子の墓は、考古学上では「叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)」と言い、その名前の通り叡福寺境内の北側にあります。宮内庁では「磯長墓(しながのはか)」と称しています。この墓に太子本人と、母親の穴穂部間人皇女、妃の菩岐々美郎女が葬られていることから、「三骨一廟」と呼ばれています。
この墓は大阪府南部、二上山麓の磯長谷の北から伸びる丘陵の先端部南斜面に南面して築造されており、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇陵とともに磯長古墳群を構成し、「梅鉢御陵」と言われます。これまでに宮内庁による調査が実施されており、また明治以前の立ち入りが可能であった時代の絵図も伝えられています。考古学的にも聖徳太子(厩戸皇子)の墓である可能性が高いとされています。
古墳は円墳ですが、その墳形は楕円形で、直径は南北約43m、東西は53m。高さ11mです。墳丘は3段築成。墳丘外表で葺石や貼石は認められていません。埋葬施設は横穴式石室で、南方向に開口しており、玄室内には棺を据えた棺台3基があり、棺台周辺には夾紵棺(きょうちょかん)片の残存があります。夾紵棺とは、乾漆棺(かんしつかん)ともいい、夾紵(きょうちょ、麻布)を漆で貼り重ねる技法によって作られた棺の一種。乾漆棺には麻布を幾重にも貼り重ねて形成した脱活乾漆棺と、木棺に布を漆で塗り固めた木心乾漆棺の2種類があり、一部の終末期古墳にみられ、当時最高級の棺として貴人の葬送に用いられたと考えられています。飛鳥美人の壁画で知られる高松塚古墳の棺も夾紵棺です。大阪府柏原市(かしわらし)玉手町(たまてちょう)7ー2にある浄土宗知恩院派の安福寺(あんぷくじ、山号は玉手山)
には、柏原市指定文化財の夾紵棺の一部が所蔵されています。この寺の周辺には終末期古墳がないため、叡福寺北古墳(聖徳太子墓)から出土した棺の可能性が指摘されています。安福寺は近鉄南大阪線「道明寺駅」から東へ徒歩約15分。
叡福寺北古墳には、棺が残されていませんでしたが、当時最高級の棺とされていた夾紵棺の残片が見つかっていますから、貴人の墓であることは間違いなく、しかも棺を据えた棺台が3基あるということは3人が葬られているということになります。そういうことから、考古学的にみても聖徳太子ら3人の墓の可能性が高いということになります。この墓からも墓誌は発見されていませんから、断定はできませんが、状況から言ってほぼ間違いないと言えます。
後世に加えられた改変として、墳丘裾周辺には「結界石」と名付けられた列石が2重に巡らされているほか、開口部には「御霊屋」と称する唐破風屋根の覆屋が建立されています。被葬者が明らかな古墳として、古墳編年における一つの基準として重要視される古墳です。
聖徳太子の墓は叡福寺にありますが、バス停は「聖徳太子御廟前」です。この名前の停留所は二ヵ所あり、一つは近鉄長野線の「喜志駅」から近鉄バス喜志駅前発循環バスの停留所で、こちらは寺の前にあります。もう一つは、近鉄南大阪線の「上ノ太子駅」南口から、太子のってこバス、上ノ太子駅前発着循環バスで、こちらは寺の東側になります。