聖徳太子の墓を巡る出来事ー乗如の石室参拝
寛政2年(1790)に東本願寺の乗如(じょうにょ)が石室を参拝して図面を残しています。乗如は乗如上人と尊称される東本願寺第19代法主。法主(ほうしゅ、ほっす)とは、仏教において教義を護持して教えの中心となる人物を言い、そこから転じて宗派▪︎教団の最高指導者を指します。したがって乗如は東本願寺のトップであったということです。乗如は、延享元年(1744)に東本願寺第17代真如(しんにょ)の第8子(五男)として生まれ、第18代従如(じゅうにょ)の後継者となり、従如が亡くなったため、宝暦10年(1760)に第19代法主になります。彼の在住中の1788年(天明8年)1月30日に発生した「天明の京都大火」により本堂を焼失しました。天明の大火は、出火場所から「団栗焼け(どんぐりやけ)」、また干支から「申年の大火」とも言われ、単に京都大火というと通常はこの大火を指すほどの火災で、御所や二条城、京都所司代などの主要な建物をはじめ、当時の京都市街の8割以上が焼け、応仁文明の乱を上回る被害となりました。そのためその後の京都経済にも深刻な打撃を与えました。天明の大火の前、1708年(宝永5年)3月8日に起きた「宝永の大火」と、幕末の元治(げんじ)元年(1864)7月19日に起きた禁門の変による「どんどん焼け」とともに「京都の三大大火」と呼ばれることがあります。東本願寺では本堂が焼けたため、八尾御坊と言われる大信寺(だいしんじ、大阪府八尾市本町4ー2ー48)の本堂を移築し、仮御影堂とし、寛政元年(1789)2月に本堂再建に着手し、「手斧始め」を行います。この本堂が完成するのは寛政10年(1798)で、乗如はその完成を見ることなく寛政4年(1792)2月22日に亡くなりました。乗如が聖徳太子の墓に参拝したのは亡くなる2年前になります。東本願寺は正式名称を真宗本廟と言い、現在の阿弥陀堂(本堂)と御影堂(ごえいどう)は明治13年(1880)に起工し、明治28年(1895)に完成しており、国の重要文化財に指定されています。
乗如の石室参拝について、京都橘大学名誉教授の猪熊兼勝氏の『聖徳太子の墓』(ネットに公開されています)によると、乗如が参拝のため、入室した時、羨道、碑文を見ており、その図面は玄室を横長の楕円形に描いていて、棺台の格狭間、井戸、鏡台,日記石は詳細に観察していますが、石室には注意を払っていないということです。
乗如が石室を参拝してから約50年後の天保15年(1844)に、墳墓への入り口の前に御霊屋(おたまや)が建立されました。この建物は唐破風が目立つ特徴的な建物です。御霊屋にふさわしく唐破風には阿弥陀三尊の懸仏があります。御霊屋は墳丘の南面に石室から墳丘裾までは斜面に合わせて、東▪︎西▪︎北に壁が廻り3段に分けて屋根が架けられており、上段と中段は瓦葺で下段階は唐破風の檜皮葺の構造になっています。御霊屋の観音開きの扉付近には、二基一対の石燈籠があり、平面六角形の春日燈籠。花崗岩製で、寄進者と寄進年次が彫られています。