外交で活躍した膳氏ー斑鳩と巴提便
膳氏にはまた、軍事や外交で活躍した人物が多く存在します。雄略天皇時代(推定464年)の膳斑鳩、欽明天皇の時代(推定545年)の膳巴提便、欽明天皇31年(推定570年)の膳傾子、推古天皇18年(611)の膳大伴らがそれに当たります。
膳斑鳩(かしわでのいかるが、生没年不詳。5世紀後半の人物)は、新羅が高句麗軍の侵入を受け、加羅に救援を求めた時に、任那日本府が派遣したうちの一人。他に吉備臣小梨(きびのおみおなし)、難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)らがいます。加羅(伽耶、加耶、かや)は1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部に散在していた小国家群で、広義では任那に含まれますが、狭義の任那とは位置が異なります。福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町(わかさちょう)脇袋にある脇袋(わきぶくろ)古墳群の中の西塚(にしづか)古墳からは朝鮮半島との交流を示す副葬品が発見されており、膳斑鳩の墓との説があります。脇袋古墳群には、上ノ塚古墳(じょうのづかこふん、全長約100m)、西塚古墳(全長約72m)、中塚古墳(なかつかこふん、全長約70m)があり、いずれも前方後円墳で国の史跡に指定されています。その中でも上ノ塚古墳は若狭地方最大の前方後円墳です。この古墳群の背後に膳部(ぜんぶ)山があり、膳臣氏との関連がうかがわれます。この古墳群は日本遺産「#005海と都をつなぐ若狭の在来文化遺産群」の構成資産となっています。この古墳群はJR西日本小浜線「上中駅」から徒歩約30分です。
膳巴提便(かしわでのはすひ、生没年不詳。6世紀前半の人物)は朝鮮半島で我が子が虎に命を取られ、その虎を退治した話が『日本書紀』に書かれています。欽明天皇6年(推定545年)3月に巴提便は勅命により百済に派遣されます。そしてこの年の11月に帰国して次のように報告しました。「私は百済に派遣された時に妻子を伴って現地に行きました。百済の浜辺で日が暮れたので野宿したところ、子供の姿が見えなくなり、どこに行ったのかわかりませんでした。その夜は大雪で、夜が明けてから探したところ、虎の足跡を見つけました。私は刀を帯びて甲冑をまとい、足跡をつけて行くと岩場の洞窟に至りました。刀を抜いて言いました。『勅命を受けて山野をいとわず、雨や風にさらされ、野宿するのも、愛する我が子に父の仕事を継がせるのが、神様が与えてくれたただ一人の子供のためなのに、今夜その子が亡くなってしまった。命を失くすのも恐れずに、仇を討つためにやって来た』と。すると虎は前に進んで来て、口を開けて飲み込もうとしました。私はすぐに左手を伸ばして虎の舌をつかみ、右の手で虎を刺し殺して皮を剥いで帰りました」。これが『日本書紀』に欽明天皇6年の膳巴提便に関する出来事として書かれています。『日本書紀』には巴提便が百済に派遣された直接の理由は書いていませんが、この時期百済から日本にたびたび使者が訪れています。百済との外交上何らかの任務を帯びて百済に渡ったということと思われます。膳巴提便にとって大変不幸な出来事です。正史である『日本書紀』にわざわざこの悲劇が載せられているのも天皇をはじめ朝廷の人たちにとって印象深いことだったのでしょうね。ただ、その後の巴提便についての記録は残されていません。