藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その2(大豪族関係者説)

 藤ノ木古墳の被葬者について、法隆寺の古文書の一つの「宝積寺境内図」に「崇峻天皇廟」と書かれており、法隆寺ではこの古墳を崇峻天皇の御陵として「ミササギ」や「陵山」と呼んで、崇峻天皇に対して供養を行い大切に守ってきたという歴史があります。どうしてこの古墳が崇峻天皇陵とみなされるようになったかはよくわかりません。『日本書紀』には倉梯岡に埋葬したとはっきり書いています。また崇峻天皇は合葬されたという記録もありません。崇峻天皇は東漢直駒に暗殺されてすぐに埋葬されていますから、誰かもう一人を一緒に埋葬する時間的な余裕はなかったと思われます。そういうことから、藤ノ木古墳の被葬者は崇峻天皇である可能性は低いと言えます。
 斑鳩町観光協会サイトにある被葬者に関する3つの説の2つ目の説「大豪族関係者説」について、観光協会のサイトを引用します。 
②大豪族関係者説は、蘇我氏の墳墓が方墳であるのに対して、物部氏の墳墓が円墳であることや、斑鳩の地が、大和川右岸の交通の要衝にあったことを勘案し、当時の大和川水系を掌握していたと言われている物部氏系の関係者(※固有名詞は示されていません)とする説で、同じような推定から、物部氏との戦いに勝利した蘇我氏が支配したと考えられ、蘇我氏の関係者とするものです。とあります。
 この大豪族関係者説には具体的な人名は出てきません。立派な副葬品からまずは大王級の人物と考えられました。大王級でないとするならば、大王家と肩を並べる財力のある大豪族の墓ということになり、当時の大豪族として第一に考えられるのは蘇我氏と物部氏ですから、そのどちらかの関係者ということになります。ただこの古墳が造られた時期には物部守屋が滅ぼされていますから、蘇我氏か物部氏かということになると、蘇我氏の関係者ということになりそうです。
 上記の引用文の中で注目されるのは、物部氏系の墓が円墳であり、蘇我氏系の墓が方墳であるという記述です。その根拠や具体例が示されていませんが、この記述に従えは、藤ノ木古墳は円墳ですから、物部氏系の関係者の墓ということになります。ちなみに穴穂部皇子は物部守屋の力を借りて皇位に就こうとしていましたから、物部氏系の関係者ということができます。
 古墳にはいろんな形がありますが、その中でシンプルなのは円墳(えんぷん)と方墳(ほうふん)です。蘇我氏が方墳とありますが、蘇我稲目の墓の可能性があると言われる「都塚古墳」は階段ピラミッドのような方墳であり、馬子の墓とされる石舞台古墳も、封土は剥ぎ取られていますが、方墳です。また馬子によって擁立された崇峻天皇の真実の墓の可能性が高いとされる赤坂天王山古墳も方墳です。それに対して国内最大規模の円墳とされるのは、奈良市丸山一丁目にある富雄丸山古墳(とみおまるやまこふん)です。富雄は神武天皇の大和入りを阻んだ長髄彦の本拠地であり、長髄彦が神として仕えたニギハヤヒは物部氏の祖神になります。また、奈良県北葛城郡広陵町馬見北(まみきた)8丁目の牧野史跡公園の中にある円墳の「牧野古墳(ぼくやこふん)」は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の墓に比定する説が有力です。この皇子は敏達天皇の第一皇子で天皇の有力候補として物部守屋ら反蘇我派によって擁立されますが、馬子によって暗殺されたとも言われます。こうしてみると物部氏が円墳、蘇我氏が方墳というのもなんとなく理解できます。

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