聖徳太子の墓ー石室が岩屋山古墳に類似

 聖徳太子の墓の埋葬施設の玄室や羨道は現在は閉じらていて内部はわかりませんが、中世▪︎近世までは立ち入ることができ、内部の様子を記した資料が残っています。宮内庁書陵部ではこれらの資料と、明治12年(1879)に行われた調査で作成された「聖徳太子磯長墓実検記」、さらに近年の調査結果を合わせて石室の規模を推測しています。このデータはウィキペディアに載っていますので、関心のある方はそちらをご覧ください。
 聖徳太子の墓の石室構造は、明日香村にある岩屋山古墳と類似しているといわれています。岩屋山古墳は聖徳太子が亡くなった後の7世紀後半頃に築造されたと思われます。また、近年では、太子の弟の来目皇子(603年没)の墓の塚穴古墳(羽曳野市)も岩屋山式石室であることが確実視されています。
 岩屋山古墳(いわややまこふん)は近鉄吉野線の「飛鳥駅」に近い、明日香村大字越(こし)小字岩屋山516にあり、国の史跡に指定されています。横穴式石室が開口していたため、古くから存在が知られていましたが、昭和53年(1978)に水害に遭い、以前から削り取られていた墳丘西側が崩落したため、環境整備事業が行われ、発掘調査が実施されました。この調査では方墳とされましたが、白石太一部氏はこの古墳の測量図をもとに分析を行い、下段部は方形ではあるが、上段部を八角形に築いた八角墳ではないかと指摘しています。八角墳は飛鳥時代の大王墓(天皇陵)に使用されていますから、もしこの古墳が白石氏の言うように八角墳であるとすると天皇もしくは天皇に近い身分の人の墓であるということになります。
 石室の用材はすべて花崗岩を使用しており、両袖式の横穴式石室で、内面には精巧な切石加工がされています。この古墳に類似した古墳が複数存在することから、前述の白石太一部氏は「岩屋式」と呼んで古墳時代終末期の横穴式石室の代表的な形式の一つとしています。
 岩屋山古墳の発掘調査によると、石室内部はすでに盗掘されており、埋葬当時の遺物は発見できませんでした。 
 塚穴古墳(つかあなこふん)は大阪府羽曳野市はびきが丘3丁目にあり、宮内庁によって聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)の「埴生崗上墓(はにゅうのおかのうえのはか)」に治定され、管理されています。この墓は大阪府東部の羽曳野丘陵北端の台地上(標高64m)に築造された大型方墳です。平成20年度(2008)に宮内庁による測量調査が行われ、また、2005年度(平成17年度)以降に羽曳野市教育委員会による周辺の範囲確認調査が実施されています。墳丘は3段築成。墳丘周囲には大規模な堀割と外堤が巡らされており、北側は築山のようになっています。この古墳は宮内庁の管理になっていますから、発掘調査はできませんが、江戸時代の古墳内部の記録が残っており、宮内省も明治23年(1890)に石室の略図を作成していて、それによってこの墓が聖徳太子の墓と同じ岩屋式であると推定されます。江戸時代の記録でも、石室内には石棺がないと記されています。大阪狭山市の狭山池では、鎌倉時代に重源による改修工事が行われ、その時に多数の石棺が古墳から持ち出されています。塚穴古墳は狭山池に最も近い大型の終末古墳であり、塚穴古墳の石棺も持ち出されたものと考えられます。塚穴古墳のある「はびきが丘3丁目」へは、近鉄南大阪線の「藤井寺駅」または「古市駅」からバスの便があります。


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