聖徳太子が亡くなったのは飽波葦垣宮
聖徳太子が晩年を過ごし、また亡くなったのは「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」です。この宮の伝承地は斑鳩町法隆寺南3ー5ー20にあった成福寺とされています。過去形になっているのは、現在この寺は廃寺になっており、フェンスで囲われていて入ることはできません。この寺には本堂と竜宮門があり、本堂には聖徳太子16歳の像が祀られていました。この像はどうなったのでしょうかね。法隆寺に伝えられてきた『古今目録抄(ここんもくろくしょう)』に「葦垣宮にて崩じ給う」とあり、また『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には推古天皇が田村皇子を遣わして葦垣宮に太子を見舞ったという記事もあります。このことから、葦垣宮で太子本人、太子の母、そして妃の菩岐々美郎女の3人が亡くなったということになります。なお、成福寺の跡地の北100mに「上宮遺跡公園」があり、ここから建物跡が発見されています。この遺跡は奈良時代のもので、称徳天皇が河内に行幸した時の止宿「飽波宮行宮址」と推定されています。『古今目録抄(ここんもくろくしょう)』は『聖徳太子伝私記』ともいい、鎌倉時代に法隆寺の僧、顕真が上下2巻にまとめた聖徳太子の伝記。
「飽波葦垣宮」跡とされる場所は、斑鳩町の隣の安堵町(あんどちょう)にも2ヶ所あります。一つは東安堵1379の「飽波(あくなみ)神社」。東西安堵地区の氏神で、祭神は素戔鳴尊。江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていました。もう一つは東安堵380の「広峰神社」です。この場所は元の飽波神社があった場所と言われています。
聖徳太子は菩岐々美郎女に「亡くなったら一緒に埋葬されよう」と言っていました。それで聖徳太子の墓にはその言葉通りに菩岐々美郎女が合葬され、また太子の母も埋葬されました。
聖徳太子の母は、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、?~推古天皇29年12月21日、太陽暦では622年2月7日)。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘の小姉君で、穴穂部皇子と泊瀬部皇子(崇峻天皇)とは母を同じくします。用明天皇の皇后として聖徳太子、来目皇子、殖栗皇子(えくりのみこ)、茨田皇子(まんだのみこ)を生んでいます。用明天皇崩御後は、用明天皇の第一皇子の田目皇子(ためのみこ、多米王)と再婚し、佐富女王(さとみのひめみこ、さほのひめみこ)を生んでいます。聖徳太子を用明天皇の第一皇子と書いている記事もありますが、正しくは第二皇子です。聖徳太子(厩戸皇子)の誕生について、『日本書紀』には厩屋の前で生まれたとの逸話を載せていますが、これは中国に伝来したキリスト教の一派で異端とされたネストリウス派、中国では「景教」と呼ばれましたが、その影響でキリストの降誕をもとにしているとの説があります。
京都府京丹後市丹後町(たんごちょう)にある「間人(たいざ)」は難読地名として知られ、また「間人ガニ」が水揚げされ、カニの季節には賑わいます。この地名の由来は、穴穂部間人皇女が蘇我氏と物部氏の争いを避けてこの地に身を寄せ、争いが収まって帰る時に、お礼に自分の名前を贈りましたが、人々は「皇后の名前をそのまま呼ぶのは畏れ多い」として、皇后がこの地を退座したことにちなみ間人を「たいざ」と読むことにしたと言われています。ただし『日本書紀』や『古事記』には、皇女が丹後国に退避したという記録はありません。