藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その3中小豪族説(大原氏と額田部氏)
3つ目の説は、斑鳩に関係すると考えられている中小豪族説です。聖徳太子の妃の一人であった膳菩岐々美郎女の出自氏族である膳氏に膳臣斑鳩という人物がいたことや、斑鳩に盤踞していたとし、聖徳太子の斑鳩への移住の背景となっていたとされる膳氏、藤ノ木古墳所在地が古代における平群郡山部郷にあることからの山部氏、立派な金銅製馬具が出土したことから斑鳩の南東方向に盤踞していた額田部氏、古代の文書から斑鳩に居たとされる大原氏など多くの説があります。となっています。
この説は藤ノ木古墳がある斑鳩およびその周辺を本拠地としていた中小豪族の関係者として膳氏、山部氏、額田部氏、大原氏の4つの氏族名が書かれています。具体的な人名は書いていません。中小豪族とありますが、それは蘇我氏や物部氏ほどの経済力は持っていなかったということでしょうが、果たして彼らに藤ノ木古墳から発見された豪華な副葬品を調達するほどの経済力があったのか疑問に思います。これらの氏族についてみていきます。
この4氏族の中で比較的なじみの薄い大原氏(おおはらうじ)ですが、『新撰姓氏録』や『本朝皇胤紹運録』などの分析により、敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子の系統の諸王で、大原氏については『新撰姓氏録』に、「出自諡敏達孫百済王也」と書かれています。百済王(くだらのおおきみ)は押坂彦人大兄皇子の息子であり、朝鮮半島の百済国の王族ということではありません。押坂彦人大兄皇子は物部守屋の支援を得て、皇位に就こうとした人物ですから、大原氏も物部氏と関係があったようです。『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんしょううんろく)』は、皇室系図の代表的存在。後小松上皇の勅命により、当時の内大臣洞院満季(とういんみつすえ)が当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて応永33年(1426)に出来上がりました。書名は中国南宋の『歴代帝王紹運図』に由来します。
額田部氏(ぬかたべうじ)は、天津彦根命(あまつひこねのみこと、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神の1神)の子孫と称し、大和国平群(へぐり)郡額田郷(現在の大和郡山市)を本拠地とし、氏寺は額安寺。『日本書紀』では、欽明天皇紀に初めてその名前が表れています。額田部比羅夫(ぬかたべのひらふ)は推古天皇16年(608)に随の大使裴世清(はいせいせい)を海柘榴市で出迎えて挨拶の言葉を述べており、その2年後の610年には新羅、任那の使人を歓迎し、膳臣大伴(かしわでのおみおおとも)とともに荘馬(かざりうま)の長を勤めています。欽明天皇の時にも外交に関係したとありヤマト王権の外交官の役を果たしていたようです。額安寺(がくあんじでなく、かくあんじ)は大和郡山市額田部寺町(ぬかたべてらまち)36にある真言律宗の寺院。山号は熊凝山(くまごりさん)。本尊は十一面観音。寺は市の南端近く大和川と佐保川の合流点近くにあります。額田寺(ぬかたでら)とも呼ばれ、同寺に伝来した(現在は国立歴史民俗博物館所蔵、国宝)「額田寺伽藍並条里図」によると、奈良時代の額田寺は南大門、中門、金堂、三重塔、講堂、僧坊などの伽藍が建っていたことがわかります、この規模の寺院を氏寺としていたことからすると額田部氏はかなりの経済力を有していたと思われます。額安寺は近鉄橿原線平端(ひらはた)駅から徒歩約20分。
額田部氏については、森公章氏の論文「額田部氏の研究 畿内中小豪族の歴史」がネットに公開されています。森公章(もりきみゆき、1958~)は東洋大学教授。