藤ノ木古墳の被葬者の説がある膳傾子の1ー高句麗の使者と会う

 膳傾子(かしわでのかたぶこ、生没年不詳。6世紀後半の人物)は、『日本書紀』崇峻天皇即位前紀には「膳臣賀托夫」、『上宮聖徳法王帝説』では「膳臣加多夫古」と書かれています。ウィキペディアによると傾子は藤ノ木古墳の被葬者だとする説があるとなっています。
 膳傾子は『日本書紀』欽明天皇31年5月の条に登場します。その内容は、遣膳臣傾子於越、饗高麗使、傾子、此云舸陀部古。大使審知膳臣是皇華使、乃謂道君曰「汝非天皇、果如我疑。汝既伏拜膳臣、倍復足知百姓、而前許余、取調入己。宜速還之、莫煩飾語。」膳臣聞之、使人探索其調、具爲與之、還京復命。秋七月壬子朔、高麗使到于近江。とあります。この文章だけでは状況がよくわかりません。実はこの記事の少し前、『日本書紀』欽明天皇31年4月乙酉条に次のような記事があります。越の人江渟裙代、京に詣りし奏して曰わく、「高麗の使人、風浪に辛苦し、迷いて浦津を失えり、水の任に漂流いて、忽に岸に到着す。郡司、隠匿せり。故、臣顕し奏す」と。詔して曰わく、「朕、帝業を承りて若干年なり。高麗、路に迷いて始めて越の岸に到る。漂溺に苦しむと難も、尚性命を全うす。豈徽猷広く被らしめ、至徳嶷嶷に、仁化傍く通わせ、洪恩蕩蕩たるに非ざらんや。有司、山城国相楽郡に館を起て、浄め治めて厚く相資養せよ」と。とあります。 
 上記の記事から、膳傾子が越国に派遣された理由として、高句麗の使いが日本に来る途中で漂流してしまって越国の海岸に着いてしまい、その地を治めていた郡司を天皇と誤解して、持参した調(貢物)を郡司に渡してしまい、郡司はそれを自分の物としてしまったということを江渟臣裙代が上京して天皇に申し出たため、その真偽を確かめるために派遣されたということになります。群臣の中から傾子が選ばれた理由は書いていませんが、膳氏が朝鮮半島との外交に関わっていたことから、高句麗の言葉を理解していて高句麗の使者と会話が出来たからだと思われます。傾子が越国に赴き、高句麗の使者をもてなして事情を聞いた結果、江渟臣裙代の申し出が事実とわかり、郡司に命じて貢物を見つけ出させました。傾子は京に戻り天皇に復命しました。その後、高句麗の使者はあらためて京に向かい、7月には近江に到着したとなっています。
 上記の文中にある「京」は欽明天皇の皇居である磯城嶋金刺宮のことになります。 
 江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)は、江渟は江沼で、江沼国造もしくはその一族と思われます。江沼国造は加賀国江沼郡(現在の石川県江沼郡と加賀市)を支配しており、当ブログでは、かほく市の賀茂神社との関連で説明しています。  
 高句麗の貢物を横領しようとした郡司は名前が書かれていませんが、「道君(みちきみ)」とされています。道君の行為に関してヤマト王権が何らかの処分を下したという記録がないことから、当時の豪族の自立性が認められるとウィキペディアでは書いています。道君についてはこの章では触れません。
 この時の高句麗の使者は、記録に表れる確実な高句麗との初めての国交記録になります。
 裙代が道君の横領を朝廷に訴え出た背景には、江沼郡と石川郡味知(みち)郷(現在の石川郡吉野谷村▪︎尾口村▪︎鶴来町)あたりを地盤とする豪族(江沼国造と加我国造)同士の争いがあったことが考えられます。吉野谷村▪︎尾口村▪︎鶴来町は現在は白山市になっています。
 

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