聖徳太子の最愛の妃は膳傾子の娘
『日本書紀』巻第二十一、崇峻天皇前紀によると、膳傾子は蘇我馬子と物部守屋との戦いにおいて馬子の側につき、戦いが決着した後、蘇我氏の血統を引く皇族に接近して娘を嫁がせます。聖徳太子の妃となった膳部菩岐々美郎女(かしわでのほほきみのいらつめ)と、聖徳太子の弟の来目皇子の妃となった彼女の妹の比里古郎女(ひりこのいらつめ)です。
膳部菩岐々美郎女(?~622年)は、膳大娘(女)、高橋妃などとも書かれます。推古天皇6年(598)に聖徳太子の妃となり、太子との間に四男四女をもうけます。『上宮聖徳法王帝説』で、そのうちの筆頭にあげられた娘は異母兄(母は馬子の娘で、蝦夷の妹の刀自古郎女)の山背大兄王の妃になっています。
聖徳太子には、菩岐々美郎女と刀自古郎女の他に、推古天皇の孫の橘大郎女(たちばのおおいらつめ)と推古天皇の娘の莵道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)の4人います。莵道貝蛸皇女は、敏達天皇と推古天皇との間に出来た娘です。聖徳太子の妃になりますが、結婚後間もなく亡くなり、子供もいません。橘大郎女は、敏達天皇と推古天皇との間に生まれた尾張皇子(おわりのみこ)の娘ですから、推古天皇の孫になります。位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)とも言い、太子との間には白髪部王(しらかべのおおきみ)、手嶋女王がいます。橘大郎女は太子の死後、太子を偲んで推古天皇にお願いして宮中の采女に天国で遊ぶ太子の姿を刺繍してもらいます。それが中宮寺に伝わる『天寿国曼茶羅繍帳』です。また、刀自古郎女(とじこのいらつめ)については、平成20年(2008)に善光寺大本願が善光寺の初代上人が刀自古郎女であると公表しています。これについては、矢島忠亨(やじまただゆき)氏に「封じられた寺 聖徳太子の善光寺」という著書(2018年自費出版)があります。
聖徳太子と菩岐々美郎女との出会いについて次のような伝説があります。彼女は別名を芹摘姫と言います。この別名にまつわる話です。聖徳太子が斑鳩に来られた時に、沿道の人々は太子の姿を見ようと人垣をつくっていました。その中でただ一人無心に芹(せり)を摘んでいる少女がいました。この少女を不思議に思った太子が声をかけると、少女は「母親が病気で看病のために芹を摘んでいて、太子のお姿を見ることができません。お許しください」と答えました。太子は少女の親孝行の気持ちに感心し、歌を1首贈りました。少女は太子に対して返歌を贈ったのですが、この返歌が素晴らしかったので、太子は再び感心し、少女はそれが縁となって太子の妃になったということです。
聖徳太子と菩岐々美郎女が一緒に暮らしたのは「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」です。この宮の場所については斑鳩町法隆寺南3ー5ー20にあった成福寺とする説が有力です。成福寺は現在は廃寺となっていてフェンスで囲われています。成福寺には嘉祥2年(849)銘の太子16歳像が祀られていたそうです。成福寺から北に100mの場所に「上宮遺跡公園」があります。ここは奈良時代の称徳天皇の行宮跡の可能性が高いそうです。隣町の安堵町(あんどちょう)にも「飽波葦垣宮」だと伝える場所が2ヶ所あります。東安堵1379の飽波神社と東安堵380の広峰神社です。飽波神社はもとは広峰神社の場所にあったとされ、祭神は素戔鳴尊。江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていました。