聖徳太子の墓を巡る出来事ー結界石と兵士の乱入
聖徳太子墓とされる「磯長墓」を訪ねると、墳丘の裾に内外二段の石の柱が立っているのを目にします。これは「結界石」と呼ばれるもので、神聖な墓域と俗界を隔てる役割をしています。
内側の列石は「中段結界石」と呼ばれ、448基が確認されています。流紋岩質凝灰岩製の方柱で、石の頭部には聖観音を意味する梵字1字が陰刻されています。柱のサイズは高さ約100cm、幅約30cm、奥行約20cmです。この結界石が立てられた理由として、太子自身が運んだとする伝説、また、空海が寄進したとする伝説があります。宮内庁書陵部による調査では、中段結界石が立てられたのは鎌倉時代の嘉禄元年(1225)以降の可能性が高いとされ、江戸時代の享保年間以降に据え直されたと推定されています。
「下段結界石」は478基が確認され、各石は黒雲母花崗岩製で、高さ約140cm、幅約30cm。頭部は山形で、石の上段には中段結界石と同じく聖観音の梵字1字。中段には浄土三部経。下段には施主の名前が列記されています。立てられた時期は明らかではありませんが、列石のうち24基では銘文に享保19年(1734)~宝暦12年(1762)の間の年紀が認められます。
墳丘上は鎌倉時代以降民間人の墓として利用されたと見られ、宮内庁書陵部による墳丘外装の調査では、五輪塔▪︎宝筐印塔(ほうきょういんとう)▪︎骨蔵器▪︎骨片などが認められているそうです。現在では、陵墓に民間人の墓を作るなど考えられませんが、聖徳太子の墓に墓を建てたら、来世では皇族に生まれ変われるかもしれません。
『園太暦』によると、南北朝時代の貞和4年(1348)に高師泰の兵が「太子御廟」に乱入し狼藉を働いたとあります。『園太暦(えんたいりゃく)』は、南北朝時代の公卿の洞院公賢(とういんきんたか、1291~1360)の日記で、南北朝時代の基本史料です。『中園相国記』とも言い、相国とあるように公賢は太政大臣になっています。北朝方の高官。彼はまた有職故実(ゆうそくこじつ)に通じており、天皇や公卿からの相談も多く寄せられ、この日記には、当時の朝廷の動向が詳しく書かれています。この日記は延慶4年(1311)から延文5年(1360)3月にわたり、123巻から成ります。貞和(じょうわ、ていわ)は北朝で使われた年号。1245~1350年。この時期の天皇は、北朝方は光明天皇、崇光(すこう)天皇。南朝方は後村上天皇。将軍は足利尊氏。貞和4年の出来事としては、四條畷(大阪府四條畷市)の戦いで楠木正行(まさつら)が高師直•師泰軍に敗れて戦死しています。そして高師直▪︎師泰は南朝方の拠点の吉野を攻めて焼き払い、後村上天皇は賀名生(あのう、現在の奈良県五條市)に逃れて、ここを皇居にします。このとき高師泰は河内守護であり、こうした一連の出来事を背景に、「太子御廟」への乱入狼藉が起きたということになります。
高師泰(こうのもろやす)は、室町幕府執事の高師直(もろなお)の弟。足利尊氏に仕え鎌倉幕府討伐に功績があり、建武政府では雑訴決断所の奉行になります。その後幕府の主導権を巡り兄の師直と共に足利直義と対立するようになり、一旦は直義の追放に成功しますが、直義は南朝方に帰順して兵を挙げ、師泰は摂津国打出浜(現在の芦屋市東部)で敗れて、兄と共に出家し、京都に護送される途中の武庫川畔で殺害されました。