藤ノ木古墳の被葬者についての3つの説その3中小豪族説(山部氏と膳氏の1)

 山部氏(やまべうじ)は大和国平群郡(へぐりぐん)山部郷を本拠地としていたとあります。平群の名前は現在は生駒郡平群町にその名を留めています。平群という郡名は今はありません。古代の平群郡はその範囲が広く、斑鳩町も含まれる現在の生駒郡全域と大和郡山市や生駒市の一部に相当します。
 山部(やまべ)または山守部(やまもりべ)は、朝廷直轄の山林の管理やそこから採れる産物を朝廷に貢納する職業集団(品部、ともべ)と彼らを管掌する氏族のことをさします。
 山部氏と聖徳太子との関係について、仁藤敦史氏の『古代王権と都城』という論文の一部を引用します。この論文はネットに公開されています。「上宮王家が在地豪族である山部氏を自己の管理下に置き、全国の山部集団を利用して瓦を焼く燃料材や建築材などを調達したと考えられる。そして、王家が山部連などの在地首長層と関係を取り結び、開発を主導することにより、彼らを貢納▪︎奉仕関係により王家の経営に組み込んだと推定できる」とあります。さらに「ここでは聖徳太子の上宮王家が山部氏を取り込むことで、朝廷直轄の山林の収穫物を手に入れ、それが王家の重要な収入源であった」となっています。それはとりもなおさず山部氏自身の経済力についても言えることになります。仁藤敦史(にとうあつし、1960~)氏は早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒業。国立歴史民俗博物館教授。
 また、山部氏の経済力と法隆寺の関係を示すものとして、山部氏が法隆寺に奉納した4点の「命過幡(めいかばん)」があります。「幡(ばん)」とは、仏の威徳を荘厳するために寺の内外に飾られる旗を言い、「命過幡」とは臨終に際して浄土へ往生することを願って行われる「命過幡灯法(めいかばんとうほう)」のための供養の幡のことです。法隆寺には山部氏が奉納した斉明天皇7年(661)、天智天皇2年(663)、年紀不明のもの2点の4点が伝わっています。 
 膳氏(かしわでうじ)は名前に「膳」とあるように食事に関係のある氏族で、古代に朝廷の食膳を管掌しました。膳氏の始祖は、『日本書紀』▪︎『高橋氏文』▪︎『新撰姓氏録』によると、第8代孝元天皇の第一皇子の大彦命(おおひこのみこと、『古事記』では大毘古命、四道将軍の一人で北陸に派遣されました)の孫にあたる磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)とされ、『古事記』では大毘古命の子の比古伊都那士別命(ひこいなこじわけのみこと)とされています。始祖の磐鹿六鴈命は、景行天皇の東国巡行に随行し、上総国において堅魚や白蛤を調理して天皇に献上し、その功により以後天皇の供御に奉仕することを命ぜられ、また膳臣の姓を賜ったといいます。『古事記』および『先代旧事本紀』の記載から孝元天皇の末裔である武内宿禰と大彦命の後裔の国造の分布を調べると、若狭▪︎越前▪︎越中▪︎越後▪︎加賀▪︎周防▪︎筑紫国など北陸地方や中国地方▪︎九州北部などに重なっており、とりわけ北陸地方は海産物の産地で、中でも若狭国は御食国(みけつくに、皇室や朝廷に海水産物を中心とした穀類以外の食物を貢いだと推定される国のこと)でもあり、膳臣を称する若狭国造が海産物の貢進に関与したものと想定されます。


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