ヴィットリオ・デ・シーカ監督 『ウンベルトD』 : 人間にとって、最も大切なもの。
映画評:ヴィットリオ・デ・シーカ監督『ウンベルトD』(1952年・イタリア映画)
イタリア「ネオレアリズモ」の巨匠ヴィットリオ・デ・シーカ監督の代表作のひとつ。
公開時には、ある意味「反時代的」であったがためにヒットはしなかったが、むしろ時代を超えて鑑賞に耐える、ヒューマンなリアリズム映画の傑作となっている。
フランスの著名な映画評論家で、『カイエ・デュ・シネマ』誌の編集長であったアンドレ・バザンが、当時の不評に対し、強く擁護した作品だ。
ちなみに「ネオレアリズモ」というのは、イタリア語読みの「ニュー・リアリズム」。戦後すぐに勃興した、イタリア映画界の新潮流だ。
戦争によって、痛めつけられた庶民や社会的弱者の「現実」に、同情的な視点を据えた作品群のことで、それが戦後の傷ついた人々に支持されたのである。現実逃避のための絵空事ではなく、現実に自分の周囲にも見ることのできる人たちの姿を、映画の中に見出して、人々は、身につまされたり、共感することで逆に癒されたりもしたのだろう。
だが、戦後もしばらくすると、イタリアは驚異的な経済復興を果たすことになる。
終戦時に敗戦国であった日本でさえも、やがて経済復興したのだから、大戦の終了前に降伏して連合国側に属していたイタリアは、その復興もひとあし早かったということだろう。
しかし、経済復興がなされると、人々の視線は「貧しい人々」ではなく、「輝かしい未来」の方へ向いてしまう。すると、これまでのような「貧しく虐げられた人々」を共感的に描いた作品への興味が失われてしまう。そうした人々の苦境が、「他人事」にしか映らなくなってしまったのだ。
そしてその結果、デ・シーカ監督も、自身の方向性を新たに模索しなければならないことになる。
デ・シーカ監督は、戦後の『子供たちは見ている』や『靴みがき』『自転車泥棒』といった作品で、虐げられた人々の悲哀を描いて、「ネオリアリズモ」の騎手となった。
しかし、それも徐々にイタリアの現実とは、そぐわなくなってきていたのだ。
そこで、デ・シーカ監督は、『ミラノの奇蹟』という作品を発表した。
この作品は、それまでの「リアリズム」作品とは違い、「虐げられた人たち」に共感的な作品ではあったも、リアリズムの物語ではなく、寓話的なファンタジー作品になっていた。つまり、今日でもときどき見かけるタイプの「心温まる」作品だったのであろう。
『ミラノの奇蹟』は、ネオリアリズモの巨匠たるデ・シーカの作品として、カンヌ国際映画祭においてパルムドール(最高賞)を与えられる。しかし、少なくない評論家からは、厳しい批判が寄せられた。
それは、「リアリズムからの変節だ」というものであり、さらに他のネオリアリズモ作家たちも含めて「ネオリアリズムは終わった」というような批判が寄せられたのだ。
もちろん、形式としての「ネオレアリズモ」は、いずれ終わるものだろう。時代の要請は変わるものだし、そもそもウケるからといって、パターンで作品を作っていては、マンネリ化で作品の質は落ちていくものだ。だから、デ・シーカ監督が、新しい方向性を模索して『ミラノの奇蹟』を撮ったというのは、ほぼ間違いないことだと、私は思う。
しかしそれは「貧しく虐げられた人たちへの共感」を失ったということを意味するわけではない。
だからこそ、デ・シーカ監督は、『ミラノの奇蹟』の後に、本作『ウンベルトD』を撮ったのであろう。
本作に描かれるのは、「貧しく虐げられた人たちへの共感」であると同時に、豊かになったがゆえに「貧しく虐げられた人たちへの共感」を失ってしまった人たちへの、批判なのである。一一経済的に豊かにはなっても、その代償として、人としての大切なものを失ってしまった、戦後の、多くの人たちへの批判だったのだ。
また、それゆえに本作『ウンベルトD』が一般に不評だった理由も、「話が暗い」ということだったのである。きっと、自分たちが批判されているというのを、多くの人は直観的に感じたのであろう。
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本作『ウンベルトD』の「あらすじ」は、次のとおりである。
この作品で、目を引くのは、
(1)について言えば、大家の女性は「経済的には豊かになったが、人間的な優しさや同情を失ってしまった人」の典型であり、直接的な批判の向けられた描写になっている。
(2)について言えば、(1)とは違い、多少は豊かになったものの「他人を助けるほどの余裕のない善人たち」の姿を描いており、必ずしも「批判的」な描写だとは言えないだろう。
ただし、もしも「多少豊かになった」りしなければ、つまり、ウンベルトと同じように貧しければ、お互いに「助け合った」だろうとも言えるわけで、要は、「不平等な経済的恩恵」が、貧しき人々の「連帯」を破壊してしまったという現実を、批判的に描いているのではないだろうか。
そして(3)だが、若い下女のマリアは、明るく愛らしい田舎出の少女だが、その貧しさゆえに教育もろくに受けないまま、一人で働きに出ている、孤独な境遇にある。
そんな彼女が、二人の若いボーイフレンドに体を許した結果、妊娠はしたものの、どちらが父親だかわからず、どちらからも認知を断られているという窮状が描かれている。
これは、私たち、豊かでもあれば、それなりに教育のある人間からすれば「いかにも愚かな行為」に思えるだろう。
だが、彼女の「孤独」を思うなら、優しくしてくれる素敵な男性に、つい身を任せてしまう、夢を見てしまうという気持ちもわからなくはないはずだ。仮に、教育が無くても、真っ当な生活が保証されていたなら、マリアだって、もう少し自分を大切にできたはずなのだ。
だから、若いマリアが、貧しく力も無い老人であるウンベルトに親切で、親愛の情を示してくれているのも、それは自分を「今の状況から救い出してくれる王子様」としてではなく、同じ「虐げられた者」としての共感からだったというのも、見やすいところであろう。
結局のところ、「夢を見させてくれるもの」とは「夢」以上のものは与えてくれない場合が大半。したがって、やはり「虐げられた者」どおしの共感と支え合いというリアリズムの中にこそ、本物の人間的な紐帯がある、ということなのではないだろうか。
さて、そうこうしているうちに徐々に追い詰められていったウンベルトが、ついに意を決して、ある日の早朝、行くあてもないまま、愛犬フライクを連れてこっそりとアパートを出て行こうとする。
マリアがそれに気づいて、アパートの階段を降りようとしていたウンベルトDに声をかける。
そして、アパートを出たウンベルトが、表でバスに乗り、その車窓からアパートを見上げると、3階の窓から彼を見送っている、マリアの小さな顔が見える。
表情までは見て取れないからこそ、このシーンはたまらない切なさの込み上げる名シーンとなっている。
この後、ウンベルトは、「旅行に出る」という口実で、犬の一時預り屋にフライクを預けようとする。無論、引き取りに戻るつもりはなかった。彼としては、野垂れ死ぬしかない自分が、フライクを道連れにするわけにはいかないと考えたのだろう。
だが、その預り屋に繋がれている犬たちは、ろくに散歩もさせてもらっていないのだろう、ヒステリックにキャンキャン吠えており、とても幸福そうには見えない。
それで、そこにフライクを預けるのは止めて、なんとかフライクを委ねられそうな人を見つけようと、子供たちが遊んでいる公園に行って、良さそうな子供に犬をタダで譲ると提案して大喜びされるのだが、その母親からすげなく断られてしまう。
それで思い詰めたウンベルトは、ついにフライクを抱いて線路に入っていき、一緒に死のうとする。
だが、フライクがそれを察しての必死の抵抗で逃げてしまい、そのためウンベルトDも死にぞこなってしまう。
しかたなしに、逃げた愛犬の元に近づくと、フライクは恐れをなして、最初は距離を取ろうとしていたが、それをなんとかなだめ、ウンベルトとフライクが、落ちていた松笠をボールに見立てたボール遊びをしながら、公園の遊歩道を遠ざかって行くところで、この物語は幕を閉じる。
つまり、本作のラストは、決してハッピーエンドではない。だが、絶望だけでもない。
この先にも予想される困難な現実を、それでもなんとか生き抜くことにささやかな期待を残して、デ・シーカ監督はこの物語を終えるのである。
一一結局のところ、最後に残されたものは「弱きものの連帯」あるいは「支え合い」しかないということなのかも知れない。
このように、決して甘くはない、しかし予定調和には終わらない作品であるからこそ、今この時代に見ても共感できる、そんなリアリズム映画に仕上がっているのだと、私は本作をそう高く評価したい。
(2025年1月14日)
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