千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』 : 君たちは荒野を行け!一一私は行かないが。
書評:千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』(文春文庫)
とても興味深い本だった。オススメである。
本書には「共感できる言葉」が山ほどあり、その一方「これはどうだろう?」といった部分も少なからずあったのだが、それらについて、逐語的に語っていたのでは長大なレビューになってしまうので、本稿では、第3章までの理論編について、その基本的な考え方に賛同しつつ、その上で、著者のスタンスに対する疑義を呈しておきたい。
ここで、言われているのは、簡単に言えば「勉強とは、ぬるま湯をぬるま湯と自覚するための努力である」ということだ。
「ぬるま湯」は『ひとつの楽園』で、「熱い風呂」が好きというのは、マニアックな趣味だと言えるかもしれない。
もちろん、好きで「熱い風呂」に入るのならばともかく、本人にその気もなければ覚悟もないのに、無理に「熱い風呂」に入れて、倒れられでもしたら面倒なので、『誰彼かまわず勧めればいいというものではありません。』ということになる。要は、同語反復ながら「ヌルいやつは、ヌルくしか生きられないのだ」ということだ。
(上の画像は、初版単行本)
ところで、著者がここで『「深い」勉強』と、特に「深い」を強調しているのは、「普通の勉強」つまり「深くない勉強」とは、要は「ヌルい勉強」に過ぎず、それでは「ぬるま湯」からは出られない、つまり「変われない」ということを意味している。
ぬるま湯から出たければ、「キツい勉強」をしなくてはならない。そして「キツい勉強」とは、単に「難しい勉強」ということではなく、「周囲の評価を求めない(バカになる)勉強」ということなのだ。だから「キツい」。
「深い勉強=キツい勉強」を極めると、当然のことながら「周囲の理解」が得られなくなるので、「あいつは、何をわけわかんないことを言っているんだ?」ということになる。つまり、周囲からすれば、その人は『バカ』になった、ということだ。
『そんなことに踏み出したいと思ってもらえるでしょうか?』一一もちろん、普通は、そんなことを思ってはもらえない。
そんなことを「面白そう」だと考えるのは、端的に言って「変態」である。
わざわざ「熱い風呂」に入ってみたり、わざわざ「ぬるま湯をぬるま湯だと指摘して、周囲の顰蹙を買ったりする」のは、どう考えたって「変態」に決まっている。要は、わざわざ「嫌がらせめいたことをして嫌われる」のを「喜んでいる」のだから。
しかしながら、こういう人がたまにはいないと、社会は「自己相対化」ということができなくなる。
「みんな」と違う視点に立つからこそ、「みんな」の社会の、良いところも問題点も見えてくる。だから、こういう人も必要なのだが、わざわざ「みんな」と同じ「ぬるま湯」から出て、「寒風」に吹きさらされたり、逆に「熱い風呂」に入ってウンウン唸ったりしたがる者など、普通はいない。
しかし、にも関わらず、現実には、そういう人がたまに現れるのだ。頼まれもしないのに、そういうことをやりたがる人が現にいる。ならば、その人は、もう「好きでやっている」としか考えられないし、事実そうなのだろう。自分としてはやりたくはないし、人が求めもしたくないものを、あえてやる人というのは、社会的な貢献だけを望んで「他人のため」に行動する「自己犠牲の人」であるよりも、むしろその本質は「変態」なのではないだろうか。
とにかく「みんな」と同じことをやっているのが、退屈で退屈で我慢ならないという「持って生まれた性分=変態性=天凛」を持つ者だけに、それが可能なのではないだろうか(そもそも哲学者とは、基本的に「変態」なのだと思う)。
一一したがって、そんなことを「普通の人」に求めるのは、無駄なのである。合理的に考えて、そんなことするわけがないのだ。
本書は、「勉強する」とは「どういうことか」を哲学し、語った本だと言えるだろう。だが、本書を読んでも「深い勉強」ができるようになるわけではない。
読めば自分にも「深い勉強」ができるような「気分にさせてくれる」だけで、ちょっと考えればわかることだが、この薄い本を一冊読めば、誰でも「深い勉強ができるようになる」わけなどないのである。
実際、著者の千葉雅也自身、いま人気の「哲学者」なのだが、「深い勉強」をしているはずの千葉その人が「ウケている」こと自体、本書で語られる「深い勉強」を、どこかで避けている証拠なのだ。そうでなければ「ウケる」わけがない。「資本主義リアリズム」を受け入れていなければ、今どきの「哲学オタク」の「ノリ」に合わせていられるわけなどないのである。
で、実際、本書の後半では、著者は周到に「徹底的であること」を否定している。こんな具合だ。
ここでは「勉強の有限化」が奨められる。『「まずこれだけ」、そして「ここまででいい」という「有限性」を設定しなければ、勉強は成り立ちません。』とのことだが、一一これは本当だろうか。
別に、どこまでも「無限」にやってもかまわないのではないか。どうせ、嫌でもいずれは死ぬんだし、なぜ、わざわざ「有限化」しなければならないのか。
その理由として『勉強は、二つの方向できりがなくなる一一追求と連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、「深追いのしすぎ」と「目移り」になる。勉強はアイロニーが基本なので、「深追いしているうちに目移りしてしまう」というのがよく起こることです。』とのことだが、「深追い」し「目移り」して、何がいけないのだろうか。
平凡な答としては、世間様に評価してもらえるような「わかりやすい成果が得られない」ということだろう。
つまり「専門のない人=何でも屋」というのは「専門家」より、「何をやっているのかわかりにくい」分、世間から理解されにくい。要は、「世間から評価されてナンボ」という「世間のノリ」から逸脱してしまうのである。
だが、そもそも「勉強」とは、そうした「世間のノリ」の外部に出るために行うことではなかったのか。
『さらには、性とは何かとか、社会とは、欲望とは何かとか、テーマはデカくなって、最終的には「世界のすべての絶対的な根拠知りたい」になってしまう。/世界の真理がついに明らかになる「最後の勉強」、そんなものはあるのか?』一一あるのかないのかは、やってみなければわからないし、やってみてもわからないのかもしれないが、だからといって、そんな「無駄なこと」をやってはいけない、という決まりはないはずだ。
何しろ「勉強」は、「世間のノリ」の外部に出るためにやることなのだから、「無謀と思えることに挑戦してみる」という「自由さ」は、あってしかるべきではないのか。「敗れる戦いに、それでも挑む(冒険の)」権利だってあるはずだ。
なのに、どうして「無難に手堅く生きろ」という「世間のノリ」の範囲内に止まらなくてはならないのか。
『哲学や数学でも、現状、学者の世界において究極の根拠づけの合意はありません。』一一どうして『学者の世界』でも「合意」のないことを、やってはいけないのか。それは「学者の世界のノリ」に合わせておいた方が「(世間的にも、変人扱いされないから)何かと得だよ」ということなのだろうか。
『アイロニーに主導権をとらせたままならば、全方位にあらゆる問題にツッコミを入れ続けながら、決して到達できない究極の真理を夢見続ける、という人生になりかねないのです。』一一私が今やっていることが、これに近いわけだが、そんな人生がいけない、というのだろうか。
「世間的に損だ」ということなら、言われなくてもわかっているが、それでは「世間様のノリ」の内に、無難に止まることでしかないのではないか。
それに『決して到達できない究極の真理を夢見続ける』と言うけれども、それは違う。
『決して到達できない究極の真理を夢見続ける』のは、『究極の真理』を夢見ているからではなく、多くの場合「ひとまず目の前にあるものが気に入らない」からに他ならない。目の前のものを片っ端から否定していった先に『究極の真理』があるとは思っていなくても、「ひとまず目の前にあるものが気に入らない」のなら、それにツッコミを入れるのは自然なことだし、その結果、何も残らなくても、それはそれで仕方がない。その手の届く範囲のリアルな世界が、そこまでのものであった、というだけの話だろう。
ともあれ、人間が「有限な存在」である以上、最終的には、何をやっても『究極の真理』など認識できないというのは、初手からわかりきった話でしかない。
であれば、やりたいやり方でやって、何が悪いというのか。
単に、そういう「自分勝手なやり方」をされると傍迷惑だと「世間様」が許さないだけではないのか。それならそれで、殺されない程度にやるという工夫くらい、やる人は言われなくてもやるだろう。
『「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。』一一絶対的な根拠になど到達できないという点は同感だが、それを承知で、そちらの方向を目指すというのは「あり」だろう。
ここでは『究極の真理』を目指すことと『究極の自分探し』が、どちらも「到達不能な目標」として否定的に並べられているけれども、どちらも「到達不能な目標」であることを承知の上で、ある意味ではロマン主義的にそれを選ぶのは、その人の勝手であって、他人がとやかく言うべきことではない。
さらに言うと、『究極の真理』探求に、世間で評判の悪い『自分探し』のレッテルを貼ることは、悪しき「印象操作」でしかないだろう。
そもそも「哲学」なんてものは、長らく『究極の真理』を求めてきたあげくに挫折した学問なのだから、その挫折を逆手にとって「わかるわけない」などと言うのも、あまり自慢のできる態度とは思えない。
「決断主義」が安直だ、というのは意見には、完全に同意する。しかし、『絶対的な根拠』を求める態度が「断念」としての「決断」を生み出すという理屈は、間違ってはいないけれども、そうとばかりも言えないだろう。
つまり、「私」は『究極の真理』や『絶対的な根拠』を求める「旅路の途中で死なざるを得ない存在である」という事実を認める「リアリズム」だって、当然あるからだ。
その場合には「決断」は必要はない。「決断」するまでもなく、私たち有限な人間存在は、『究極の真理』や『絶対的な根拠』の有無さえ知ることもなく死んでいくのが、「必然」だからである。
つまり、「決断主義」とは、『究極の真理』や『絶対的な根拠』の探求から「必然」的に生まれるものなのではない。そうではなく、自分は、その探求の「旅路の途中で死なざるを得ない存在である」という「わかりきった事実」を直視できない「弱さ」によって生み出されるものに過ぎない。
自分が「生きている間」に『究極の真理』や『絶対的な根拠』に到達できないという「わかりきった事実」を直視できず、ただ「生きている間」にそれに到達できないと、自分は「生きている間」に「世間様から評価されない」「愚か者だと笑われる」とか言ったことが恐ろしくてしかたのない、そんなチンケな人間が、手っ取り早く『究極の真理』や『絶対的な根拠』を手にしたと思い込みたくて、「自分は特別な存在だ」と信じ込みたくて、安易な「決断主義」に走るのである。
「決断主義」の問題点が『他の考えをもつ複数の他者がそもそも存在しなくなる。』という点にあるのだとしたら、『究極の真理』や『絶対的な根拠』を追い求める立場、つまり「深追い」や「目移り」を良しとする立場も、『他の考え』として『認めなければならない。』のではないだろうか。千葉の言っていることは、寛容なのか不寛容なのか、よくわからないものになってしまっているのではないか。
『アイロニカルの批判は、むしろ半端な状態に留めておく必要があるのです。』一一とのことだが、有限な存在である人間の行う『アイロニカルな批判』なんてものは、所詮は、嫌でも『ハンパ』ものに留まってしまうのではないか。
もともと徹底できない『アイロニカルな批判』に対し、その代替案として、無難な『ユーモア』を提起しておけば、それは「ハンパな世間」の「ウケ」も良くて当然であろう。つまり、これは「ノリ」やすい意見だ。
『ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない。』『勉強を継続すること』が大切だ、という意見には賛成である。
しかし、ここで問題なのは、「私は、究極の答を持たないから、ここでの意見表明は差し控えておいて、勉強を続けます。それが知的に誠実な態度だと思います」というような、(今どきの官僚答弁的な)「無責任な現実逃避」の自己正当化だ。
有限な存在である人間の意見など、所詮はどこまで行っても『仮固定』された「暫定的意見」でしかないのは明らかだ。しかし、だからといって、その「暫定的意見」あるいは「暫定的良心」や「暫定的正義」に従って行動しないでは、人間は生きてはいけない。なぜなら、人間は「暫定的な存在」だからである。
なのに、「暫定的意見」だから「何もできません」などと言うことの方が、よほど『究極の真理』主義、あるいは『絶対的な根拠』主義であり、「お前は神様か!」と批判されて然るべき「傲慢」ということになるのではないか。
したがって、『「エイヤッ」で決断』が、理想ではあり得ないにしろ、私たちには否応なく「決断」しなければならない時があるし、事実として私たちは、いつでも「決断」してきたのだということに気づくべきであろう。
言い換えれば、「決断主義はいけないよ」みたいなことを、何の「痛み」もなく、したり顔で語れるのならば、それはその人自身が、いかに安易に決断してきたかに気づいていないことの証拠にしかならないのである。
私はこのように、実践しています。
『決断主義の場合と違って、比較を行う私は個性的な中身をもっている。何かにこだわる私がいる。享楽的な私が。』一一なんて言葉に、うかうかと乗せられる、頭の軽い「哲学オタク」は少なくあるまい。だが、その軽い頭の中に『個性的な中身』や『こだわる私』なんてものは、ほとんど詰まってはいないだろう。『享楽的』というよりは、端的に「楽天的(ノーテンキ)」なのだ。
『他方で、決断する私は、決断するだけのカラッポの私だった。』一一嫌々ながらも決断せざるを得ないから決断した場合だって、山ほどあるんじゃないのか。千葉自身は、決断しないで生きてきたのとでも言うのだろうか。
この言い方では、実際には幅のある「決断」を、あまりに戯画化しすぎだろう。
『比較の中断は、最終的に、享楽的なこだわりがあるからこそ起こる。』一一つまり、偏執してしまうものがあるから、フラットな比較ができない、という意味だ。
たしかに『昔から自分はこうだった』という部分はあって、それは容易に脱ぎ捨てられるものではない。だが、千葉も言うとおり『享楽的こだわりは絶対的に固定されたものではなく、変化可能である』なんてことは、当たり前でしかない。
『その変化には限度があるにしても、可能性としては変えられる部分があること』は、その『限度』を認めるなら、別にわざわざ「ハウトゥー」的に説明してもらうまでもないことなのではないだろうか。だからこそ、このレビューでは、実践編たる本書第4章は扱わなかった。
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本書の基本的な主張は「バカになろうよ」ということだった。そして、私はこの意見に大賛成であった。
ところが、本書は肝心なところで「腰砕け」になっており、結局は「世間ウケ」を意図し、「世間のノリ」に迎合している自分を正当化してもいる。
つまり「言っていることと、やっていることが、バラバラ」なのだ。
だから「言っている」ことには賛同できても、「やっている」ことの方は批判せざるを得なかった。
「世間のノリから、外れてみようよ」と言いながら、しかしその人の「身振り」は間違いなく「世間のノリ」に迎合したものでしかなかったのだ。
そして、こんなにも露骨な「矛盾」にすら気づけない読者が、本書でのんきに、ノリノリになれるのである(その実例は、Amazonカスタマーレビューを参照)。
(2022年3月15日)
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