新藤宗幸 『権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか』 : 「やっぱり、そんなことでしかない」という〈現実〉
書評:新藤宗幸『権力にゆがむ専門知 専門家はどう統制されてきたのか』(朝日選書)
「日本学術会議会員任命問題」あるいは「新型コロナウィルス感染症専門家会議(改組して「新型コロナウィルス感染症分科会」)と政権との関係」など、「学者」を代表とする所謂「専門家=専門知」と「政治家=政治」との関係が、じわじわとながら、一般からも問われる空気が醸成されている。
端的に言って「専門家は、政治に対して、本当に独立的な意見表明ができているのか?」という疑問である。
こうした疑問が、最初にハッキリと意識されたのは「東日本大震災に伴う、福島第一原発事故」の際に明らかになった、「原子力ムラ」の「学者」や「知識人」の問題であった。
彼らは「日本の原発においては、過酷事故など絶対に発生しない」という所謂「原発安全神話」を、原発政策を推進する政府と電力会社の「要請」に従って「喧伝」して、国民を「洗脳」し続けてきた。
もちろん、「無料」でそれをしていたのではなく、日本の電力政策に「都合のいい有識者」として、いろいろな面で「良い目」を見させてもらって、「原子力礼賛」を続けてきたのである。
彼らが、意識的な「嘘」をついていたとまでは言わない。原発の危険性を十二分に承知していながら、それとは正反対の「安全神話」を語って、国民に対して「絶対に大丈夫だ」と「嘘」をついていた、とまで言いはしない。
たぶん、彼ら自身も、その「安全神話」を半ば以上信じていたのだろうと思う。自分では、「良心」に従って「大丈夫だ」と保証していたつもり、だったのだろうと、そう信じたい。
専門家といえども「人間」であるならば、「信じたいものを信じてしまう」というのは、ありがちなことであり、例えば、その極端な例が「神の実在を信じる、カトリック信者の物理学者」といった人たちの存在である。
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しかし、「原発の安全性」問題の場合、「神の実在」とは違って、ほとんど「物理科学的な問題」であって、「信念の問題」ではないはずだ。
「専門家」の「信念」とは、単なる「信じたいことを信じる」ということではなく、「科学的裏付けによって形成された信念」でなければならないはずなのだ。
だから、彼らが「原発安全神話」を信じていたとしても、それは、その「信念」を形成するに十分な「裏付け」がなければならないはずであり、ということは、「原発安全神話」を否定する学者たちの批判に対して、合理的に反論しうるだけのものでなければならなかったはずなのだが、一一はたして、そのようなことができていたのか。はたして、その「絶対に大丈夫」という国民への「保証の言葉」を発するに十分な裏付けを、個々の「専門家」や「有識者」は持っていたであろうか。
無論、そんな「科学的に十分な裏付け」など、持ってはいなかった。
多く発せられた「批判的疑義」に対して、「原発安全神話」を語った「専門家・有識者」たちは、自身の「絶対に安全」という「信念」に、都合の良いデータにしか見向きをせず、「見たくないデータ」は見なかった。「見たくないデータ」が無かったのではなく、それをあえて、意識的に見ようとはしなかったのである。
それはちょうど、新興宗教の信者が、心酔する教祖についての「スキャンダル」報道を信じようとはせず、目を背けてしまうのと、まったく同じ心理に由来する「盲信」でしかなかった。
所詮は「個人の信念」に問題でしかない「宗教信者の盲信」とは違い、当然のことながら、その「信念」には「科学的・学問的裏付け」があるはずの、あってしかるべき「専門家」や「有識者」たちにも、実際には、そうした「裏付け」が無かったのは、いったいなぜであろう。なぜ「確実な裏付け」を持って、自身の「揺るぎない信念」を構築しようとはしなかったのか。
一一無論それは、「原発安全神話」を信じた方が、「何かとトクだったから」である。
平たくいえば、「政府が求めるもの」「権力者が求めるもの」「大企業が求めるもの」を信じていれば、「良心の呵責」なく、それらに対して無条件に協力することができて、何かと「おいしい思い」をすることもできたからである。
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政府などからお呼びがかかって「専門家会議」などのメンバーになれれば、肉体的・時間的には楽で、大きな責任を負わされることもないような仕事、つまり、本職の負担にならない程度の「会合への参加とそこでの発言」だけで、悪くない給金がもらえる。
しかも、そうしたメンバーに選ばれたという事実が、本職における「箔付け」にもなって、本職業界における「立身出世」のための強力な武器となり、結果として「地位と名誉とカネ」を得ることができるようにもなる。
たしかに、こうした「御用専門家会議」においては、必ずしも、時の政府が喜ぶようなことを言わなくてもいい。むしろ、積極的に政府の耳に痛いことを言う人もいるだろう。
しかし、どのような意見を採用するかは、最後は政府の判断であり、「専門家・有識者」の意見というものは、所詮は何の拘束力もない「参考意見」でしかないのだから、言ってみれば、政府としては、いくら批判的な意見を口にしてもらっても、かまわないのだ。
むしろ、そうした耳に痛い意見も出してもらわないと、文字どおりの「イエスマン御用学者」しか雇っていないという批判を国民から受けることになるので、政府としては、政府の方針を支持する意見と批判する意見の、両方がなくては困るのである。
したがって、政府の方針に批判的な意見というものもまた「あらかじめ織り込み済み」のもの(アリバイ)であり、「期待された要素」でしかないと言えるだろう。
だから、あえて「批判的な意見」を表明する専門家会議メンバーも、馬鹿でなければ、それを承知で「安心して、反対し、批判的意見表明をする」ことができるのである。
一一つまり、「御用専門家会議」に参加するというのは、政府の意見を追認するにしろ反対するにしろ、どっちにしろ、おいしい話なのだ。
無論、そうした批判を承知で、しかし誰かが政府に「批判的意見」を伝えないわけにはいかない、といった使命感から、そうした「御用専門家会議」に参加する人もいるだろう。それは、わからない話ではない。
しかし、そんな彼が、その「専門家会議メンバー」という肩書きを得ることのメリットについて、完全に無自覚であり無欲だとは、思えない。
なぜなら、そういう使命感を持っている人なら、「御用専門家会議」に呼ばれるまでもなく、一文の金にもならないのに、すでに自主的に「政府に物申す」活動をしているはずで、政府に呼ばれて初めて発言するというのは、どうしたって、その「本気」度を疑わざるを得ないからである。
しかも、そのようにして、「御用専門家会議」に呼ばれるまでもなく、自主的に「政府に物申」すような「専門家・有識者」は、必ずや「専門家・有識者」の「業界」においても出世できないから、おのずと「御用専門家会議」に呼ばれることもない、ということになってしまう。
これを裏返して言えば、「御用専門家会議」に呼ばれるような人は、「あらかじめの批判者」ではなく、政府にとっては、悪くても「無視できる程度の、ゆるい批判者」であり「アリバイ作りに利用できる程度の、ゆるい反対者」でしかない、ということである。
無論、「電力会社」の方針を進んで協力するような「専門家・有識者」は、端的に言って「個人的利得のために、追認的意見表明をしている」と断じて良い。
言い換えれば、一切の利得を受けずに、むしろそれを峻拒してまで、「原発推進を支持」し「原発の絶対安全を保障した」ような「専門家・有識者」といった、「無私の確信犯」などといったものは一人も存在せず、「原発推進を支持」し「原発の絶対安全を保障した」すべての「専門家・有識者」は、何らかのかたちで「見返り」を得ている、ということである。
これが、世の常であり、人間の現実なのだ。
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そんなわけで、本書では、日本における「専門知」が、どのようにして政治に取り込まれていったのかのを、歴史的に検討するとともに、「日本学術会議」「コロナウィルス専門家会議」「原子力ムラ」といった個別具体例を検討して、この問題の全体像を浮かび上がらせている。
そして、そうした浮かび上がった「全体像」から見えてくるのは、本稿のタイトルどおり、「やっぱり、そんなことでしかない」のかと、嘆息したくなる〈現実〉だ。
無論、こんな不甲斐ない「専門家・有識者」たちへの批判が必要なのは、当然である。
しかし、これは、彼ら(専門家・有識者)を「批判するだけで満足する」わけにはいかない「現実問題」である。
ならば、どうするか。
それは、私たち個々が、「専門家・有識者」に丸投げすることなく、可能なかぎり、必要な知識を得る努力をして、主体的に「意思表示」していくことだろう。
「どちらの意見が正しいのか」を見抜くための目を持つために、必要な知識を得る努力をして、私たち自身が、政府にそして、専門家に物申すこと、一一これしかないのではないだろうか。
(2022年4月11日)
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