アベ・ピエール 『神に異をとなえる者』 : 神と共にあった人の 〈確信の言葉〉
書評:アベ・ピエール『神に異をとなえる者』(新教出版社)
まず最初に言っておきたい。本書は稀に見る「信仰の書」であり、信仰者はもとより、非信仰者や無神論者さえも読むべき本だ。読書家であるなら、本書を読まないのは、人生における損失である。
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著者名「アベ・ピエール」の「アベ」とは「在俗神父に与えられる称号」であり、つまりは「ピエール神父」ということなのだが、彼の本名は「アンリ・アントワーヌ・グルエ」である。
これが何を意味するのかと言えば、それはたぶん、彼自身にとって、最も本質的なのは「神に仕える私」であるということであり、またカトリック国であるフランスの、多くの人たちにとっても、彼はまさに「ピエール神父」さんだった、ということなのであろう。
本書の「著者紹介」は、次のとおりである。
彼が愛される理由は、この経歴にも明らかだろう。彼は、差別なき「人間愛」に満ちた人であり、かつ、この世の不条理に対して、いつも勇敢に立ち向かい続けた人だった。そんな彼が、多くの人々から愛されるのは、当然のことだったのである。
しかし、彼は「愛された」だけではなく「愛され続けた」人である。その意味するところは、彼の「行動」の立派さや素晴らしさだけではなく、その「言葉」が、つねに人々の胸に訴え続けたからこそ、彼は単なる「権威」として「愛された」のではなく、「共に生きる人」として「愛され続けた」のではないだろうか。
そんな彼の遺著となるのが、本書『神に異を唱える者』である。
正確には、本書は彼が書き残した著書ではなく、最晩年の彼と深く交流し対話を重ねてきた、哲学者フレデリック・ルノワールが、そうした対話の中で語られた、アベ・ピエールの言葉のエッセンスをまとめた著作である。
本書のタイトルが、『神に異をとなえる者』という、いささかショッキングなものとなっているのも、それは著者であるアベ・ピエール自身がつけたタイトルではなく、編者であるルノワールが、アベ・ピエールの信仰者としての個性をわかりやすく伝えようとして、付けたものだからだ。
ルノワールは「はじめに」において、次のように書いている。
アベ・ピエールの言葉の率直さの例証として、当時、新教皇となったばかりのベネディクト16世について語った言葉を、次に引用しよう。
なお、この後に、編者ルノワールによる、次のような註がついている。
見てのとおり、アベ・ピエールは、即位直後のベネディクト一六世について、なんの遠慮もなく「あの人はこういう人だから、こうだろう」という調子で語っており、これはその前の(保守派のアイドル=偶像だった)ヨハネ・パウロ二世についても同じだった。
彼は「後から偉そうに語る」のではなく、当時において、こんな調子で語っていたのだから、この忌憚のない率直さが、彼の人気を支えていたというのは、間違いないところである。
彼のこうした率直さや忌憚のなさは、彼が「在俗神父」であり、比較的自由な立場にあったからだ、ということではない。こんな「在俗神父」は決して多くないだろうという推測は、どんな「人間組織」においても同様だという事実に例証される。上司に関する「陰口」なら誰でも叩いていただろうが、公然と世間に向かって、自分の組織のトップをこのように論評できるような人は、めったにいないのである。
では、なぜ彼がこのような率直さで、自分の思うところを語ったのかと言えば、それは彼が「神に異をとなえる者」だったからではなく、神を心底信じればこそ、神に対して「なぜ」と問うことを怖れない人だったからである。そんな人であれば、大統領であれ、ローマ教皇であれ、遠慮したり怖れたりする必要など、毛筋ほどもなかったからだ。
つまり、彼にとって大切なことは、「神の意志」を正しく行うことであり、人間でしかない権威者の迎合して、結果として「神の意志を誤る」ことではなかったからなのである。
アベ・ピエールは「聖母マリア」についての、教会による安直な「偶像化」問題を批判して、その原理を、アウグスティヌスの引用で、次のように語らせている。
つまり、「神の子」を生んだ「聖母」とは言え、彼女は聖書の上では「原罪を背負った、ただの人間」でしかないはずなのに、偶像崇拝的な一般信者の要望を斟酌して、マリアを「無原罪の聖人」にまで(教義として)祭り上げてしまうこと(つまり、信仰的ポピュリズム)は、結局のところ、キリスト教信仰への信頼を失わしめ、救うべき人々に不信感と懐疑を与えて、救えなくなってしまうという結果を招来するものでしかない。
だからこそ、そういう誤りを犯す者に対しては、正しき信仰に立って、厳格な批判を加えなければならないのであり、それこそが「神の意志」を正しく行う、ということなのだと、アベ・ピエールは、そう語っているのである。
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私自身は「無神論者」であり、キリスト教の中でもカトリックを、しばしば厳しく批判している。しかしこれは、単にキリスト教が間違っているとか、カトリックが間違っているとかいったことではなく、彼らの主張に「論理的一貫性がなく、人間として不誠実」だからなのである。
結局のところ、「神は存在するか否か」などといった疑問に対する正解は、誰にも知りえない。なにしろ神は「人知を超えた存在」だというのだから、それを「正しく知る」ことなど、原理的に不可能なのだ。だから、それを信じる信じないは「人それぞれ」でしかないのだが、しかし、そこで問題となるのは「信じ方であり疑い方」なのである。
言い変えれば「いい加減に信じたり、いい加減に疑ったり」するというのは「人間として不誠実」だと、私は「無神論者」の立場から、人の「信仰に対する態度」を問うてきたのだ。
それ故に、アベ・ピエールの「信じると決めた上で、それに見あった論理的に正しい行動をする」という選択を、私は全面的に支持することができる。
私にすれば、彼アベ・ピエールは「信仰という間違った選択をした上で、論理的に正しい行動をしている蓋然性がきわめて高い」と思うけれども、それは「逆の立場」に立つ彼からしても、まったく同じことだからである。
神の存在が「(客観的に)不可知」であるならば、信仰と非信仰という「二つの道」は、必然的に存在しなければならないし、それは「神が意図して造った世界の在り方」だとも言えるだろう。だからこそ私たちは、「二つの道」のいずれを選択するにせよ、その選んだ道を誠実に歩まなければならない。
こうした考え方において、アベ・ピエールは、私の「同志」と呼べる存在なのである。
初出:2020年1月5日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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