村上重義『国家神道』 : 〈フランケンシュタインの怪物〉的エセ宗教
書評:村上重義『国家神道』(岩波新書)
名著中の名著であり、すでに古典である。1970年の初刊でありながら、このような「学術書」が、半世紀後の今も新刊書店で売られ、読み継がれているというのは、生半なことではない。
本書についてのAmazonレビューを見てもわかるとおり、本書を高く評価するレビュアーであっても、本書の並外れた「歯ごたえ」に言及せねばならぬほど、本書の充実度は並外れている。
当今のごとく、新書というのは「読みやすい学術入門書」だと思われている感覚からすると、この厚くもない230ページほどの本には、今どきの新書の10冊分くらいの内容が、ぎゅっと凝縮されており、「一章一章が」と言うよりも「一節一節が」数冊の専門書の対象になるような中身を、簡潔に語っているのだ。
当然、まともに学術書を読んだことのない人には、ほとんど頭に入って来ないであろう内容である。つまり本書は、ある程度の予備知識があってこそ、それなりに読み解けるのであって、それがない人(日本の宗教史初心者)には次々と専門用語や聞き慣れない言葉が、目の前を流れて行くだけ、といったことにしかならないだろう。
したがって、否定的評価をしている人というのは、まず間違いなく「理解できなかった」か「イデオロギー的に理解しようとしなかった」かの、いずれかだと見て間違いはない。
なにしろ、あの松岡正剛ですら、初めて本書に接した若き日には、その織り込まれた意味の重みを、十分に咀嚼し得なかったと語るほどなのだから、政治イデオロギーの「左右」を問題としているようなレベルの読者に、本書が読み切れるわけなどないのである。
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本書は、明治政府によって創作され太平洋戦争の敗戦によって廃止されるまでの約80年間、日本国民と周辺諸国民に対し猛威を振るった「政治イデオロギーとしての国家神道」について、そのベースとなった「宗教としての神道」の誕生から、順序だてて書かれた「基本書」だ。
「国家神道」の政治性とその問題点については、日本の近代史を多少なりとも齧った者であれば、おおよそのところは知っているだろう。
しかし、「神道」がどのようなものなのかというのは、宗教学の範疇の話であり、また、そのかなり複雑な形成経緯からしても、「ほとんどの日本人は知らない」と断じても良い。
「神道」というのは、もともと他の宗教と同様に「あらゆるものに霊が宿る」と感じるアニミズム的なものに発して、徐々に多様な内容を含む民俗宗教として発展した後、外来の宗教や思想(仏教・儒教等)と習合して(入り交じって)、どんどん変貌を遂げたいったもの(概念運動体)で、「神道の基本形」といったものは、もとより「存在してはいない」のだ。
そしてそれが、キリスト教やユダヤ教、イスラム教といった「偶像崇拝否定」の一神教とは大きく違った特徴であり、「神道」というものを分かりにくくしている原因なのである。
言い換えれば、「要素としての神道的なもの」は存在していても、「正統神道・純粋神道」というようなものは存在しないのである。
神道は、その時代時代に、いろいろな思想や宗教と、さまざまな必要に応じて、習合し変形生成されて、形を変えながら生き延びて来た「ハイブリット宗教」なのだと言えよう。
このような「宗教として神道の、宗教的異質性」は、ある意味では、いかにも「日本人的なもの」だと言えるだろう。
つまり、「神道」とは「つぎつぎとなりゆくいきほひ」であって、通時的には「明確な輪郭や実態をもたない、融通無碍な概念」でしかないのである。
厳密に言えば、遡るべき「原型」としての「純粋神道」といったものは、歴史的には存在せず、当然、保守すべき「伝統形式」や「理想」もまた、どこにも存在していない、ということになる。
したがって、もしもそれを、さも存在するもののごとく語る人がいたとすれば、その人の語る「神道的伝統や理想」とは、恣意的に選択された(切り採られた)「私的な神道概念」でしかない、ということになるのだ。
ともあれ、こうした「変形変態をくりかえす宗教としての神道」の歴史にとって、明治政府の政治的意図による「脱構築的な政治的再創造」は、日本の歴史において前例を見ない、徹底的な「宗教の改造」であった。
それは「神道」というものが、歴史の過程で変化してきたった中でも保存されてきた、ある種の「主体性」すら、日本の近代化と帝国化を意図する明治政府という「政治権力(世俗権力)」によって、いったんは完全に解体され、要素還元されて、政治的に不要不都合な部分は捨て去られ、都合の良い部分だけをつぎはぎにしてでっち上げられた、宗教としては「異形」と呼んでいい「政治的な人造宗教」だったと言えるのである。
本書で、村上重義が「国家神道」とは、近代において政治的にでっち上げられた「政治的イデオロギー装置」であって「歪められた(不健康で、自立性を欠いた)宗教」である点を強調しているのは、宗教学者として極めて自然な態度だと言えるだろう。
村上は、決して「宗教」そのものを否定してはいないし、当然「宗教としての神道」も否定してはいない。村上が強く否定するのは「時と場合に応じて、宗教性と非宗教的習俗性のダブルスタンダードを使い分ける、政治的なエセ宗教」としての「国家神道」であり、残念ながら、私たちが現在目にしている「神道」の多くは、そんな「国家神道の残党」なのである。
具体的に言えば、「神社本庁」とは「国家神道の栄華よ、もう一度」と狙う「宗教政治屋」の組織であり、だからこそ「日本会議」や「ネット右翼的保守」などとも容易に結びつき、神宿る国土を汚す「原発政策推進与党」を支持したりもできるのだ。
彼らにとっては、「政治より信仰」ではなく、「政治の為の、道具としての宗教」でしかないというのは、彼らが「宗教としての神道」の、正統な末裔(血統)ではないという、何よりの証拠なのである。
ちなみに、今にいたる主流派の「神道(神社神道および皇室神道)」において、その「教義」や「儀式」が、明治以降に政治的に捏造されただけではなく、私たちが「日本を代表する、歴史ある神社」として疑いもしない有名神社の多くが、じつは明治以降に「政治的意図を持って創建された、政治的宗教施設」であるという事実を、最後に本書から紹介しておこう。
私たちが知っている、有名な、あの神社もこの神社も、そのほとんどすべてが「政治的意図によって、近代になってから作られた、疑似伝統的な神社」なのだ。
多くの日本国民は、その事実を今も知らないまま、「神代の時代から続くもの」ででもあるかのように「ありがたがって(思い違いしたまま)」お参りしているのである。
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