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井上章一ほか 『ミッションスクールに なぜ美人が多いのか 日本女子とキリスト教』 : 井上章一小論 あるいは 表象としてのキリスト教

書評:井上章一ほか『ミッションスクールになぜ美人が多いのか 日本女子とキリスト教』(朝日新書)

こう言ってはなんだが、キリスト教にさして興味のない人が、このキャッチーなタイトルに惹かれて本書を読めば、そこに書かれているのが「日本における、ひとつのキリスト教受容史」であることを知って、退屈するしかないだろう。それは他の方のレビューにも半ば明らかだ。
一一だが、キリスト教研究という立場から見れば、本書は無視できない「問題意識」を提供している。

それは、キリスト教における「表象と本質」の問題であり、さらに言えば「そもそも、表象以上の本質や実質など在るのか?」という、哲学的問いである。

本書は、まえがきと第1章で井上章一によって示された「ミッションスクールになぜ美人が多い(というイメージがある)のか?」「現に、人気の女子アナウンサーには、ミッションスクール出身者が多いが、これはなぜか?」「キリスト教は日本で受容し損なわれた負け組宗教であるという、日本人キリスト教徒の被害者的自意識は正しいのか? 少なくとも文化的には、キリスト教は勝ち組ではないか」という問題意識に、郭南燕川村信三が、主にプロテスタントとカトリックの日本における受容史の観点から、それぞれに説明を試みている。

つまり、郭南燕と川村信三の説明を読めば、井上章一の問題意識は、決して的外れなものではなく、むしろこれまでの日本のキリスト教史で軽んぜられ、無視黙殺されてきた「リアルな視点」であることがわかるのだ。
だが、問題は、井上をはじめとした非クリスチャンの日本人の多くが感じているようなキリスト教観が、なぜ当のキリスト教界からは無視黙殺されてきたのかという点なのだが、それは無論「美人」だ「女子アナ」だ「通俗的キリスト教式結婚式」だ「クリスマスイベント」だといった日本的現象が、キリスト教の「本質」を置去りにした、浅薄な文化現象でしかないと、否定的に見られていたからであろう。

現に、ミッションスクールに美人が多いとか、出身者に女子アナが多いとか言ってみても、彼女たちは必ずしも洗礼をうけたクリスチャンであるわけではないし、キリスト教式結婚式が人気だ、クリスマスはすっかり定着したとか言ってみても、それをやっている日本人の大半は非クリスチャンであり、聖書を読んだこともなければ、キリスト教の教義を知っているわけでもない。カトリックとプロテスタントの区別も、牧師と神父の区別もろくにつかない人たちなのだ。
言うまでもなく、キリスト教というのは、神の「福音」を説いて「宣教」する宗教である。つまり、最後の審判で救われる人を一人でも増やそうと布教をしている宗教なのだから、いくら表面的にキリスト教「文化」が広まったところで、洗礼を受けて信者になる人が増えないのでは「失敗」だと考えるのは、ごく自然なことなのだ。

だが、井上章一がなぜ、こうしたキリスト教的「常識」を無視して「文化的に勝者となっているではないか」という点を強調したのか、そこが本書最大の問題提起なのだ。
というのも、井上章一というユニークな学者は、常に「表象の側から、本質論のいかがわしさを問う」反骨の批評家だからである。

『井上章一 いのうえしょういち
 1955年、京都府生まれ、京都大学工学部修士課程修了、国際日本文化研究センター教授。建築史、意匠論のほか日本文化論、あるいは美人論などの発言で注目されている。著書に『つくられた桂離宮神話』『美人論』『京都ぎらい』など。』(著者紹介より)

私にとって井上章一という人は、昔から常に気にかかりながら、なかなか読む機会のない批評家だったのだが、数年前にやっと念願の『霊柩車の誕生』を読むことができた。この本は、1990年の朝日選書版『新版 霊柩車の誕生』を買っていながら積読の山に埋もれさせ、実際に読んだのは2013年の朝日文庫版『増補新版 霊柩車の誕生』においてだが、そのあと私は古本で1984年の初版『霊柩車の誕生』を手に入れている。
井上の著書では『狂気と王権』『美人論』などを読みたいと思いながらも未だ読めないものの、その著書のタイトルを見るだけでも、彼のある種の特徴や傾向が浮かび上がる。
例えば『狂気と王権』の「狂気」、『美人論』の「美人」、『京女の嘘』の「嘘」『つくられた桂離宮神話』の「つくられた」や「神話」、『夢と魅惑の全体主義』の「夢」や「魅惑」といったことであり、そこで問われているのは「見かけと中身」の問題であり「様々なる意匠とその本質」の関係、そんなところなのではないだろうか。

具体的に言えば「霊柩車のデコラティブな意匠」は「通俗的で非本質的な葬礼様式」と見るべきなのか、それとも真逆に「そこにこそ葬礼の本質がある」を見るべきなのか、と問うことができるが、たぶん井上の立場は後者なのだ。
これは「美人」についても言えよう。「美人」とは「顔の造作」のことなのか、それとも「内面の反映としての美」の問題なのか。井上なら、たぶん前者から後者の欺瞞性を照射したことだろう。

同様に「キリスト教」の「本質」とは、はたして「正統教義」や「教会」や「洗礼」にあるのか、それとも「キリスト教文化」と呼ばれるもののほうにこそあるのか、と問うことができよう。
当然、キリスト教徒は前者こそが本質であり、後者は「表層」であり「意匠」であり、いっそ「仮象」であるとさえ言いかねない。しかし、実際のところ「表層」や「意匠」や「現象」の奥に、「本質」など存在しているのだろうか? 井上章一の問題意識は、このように「キリスト教の本質」を問うものなのだ。

しかしながら、一方で共著者二人の問題意識は、その深みにはまったく届いていない。
なんとなれば、井上の問題意識は、多くのキリスト教理解者や信者が思うほど「奇を衒った」浅薄なものでも、逆説的なものでもなく、逆に「目に見える聖書の記述は、目に見えない神の実在を保証するものなのか?」という問いと同様に、鋭く本質的なものだという認識を、多くの読者と同様に、決定的に欠いているからだ。

初出:2018年12月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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