藤本タツキ 短編集 『17−21』 『22−26』 : 作家自身のキャラクターのユニークさ
書評:藤本タツキ短編集『17−21』『22−26』(ジャンプコミックス・集英社)
「書評」としているが、実際には「書評」ではなく「作家論」になるだろう。つまり、作品を論ずるのではなく、作家を論ずるための材料として作品にも言及するというとだけで、作品の評価が目的ではない。
さらに言えば、正確には「作家論」ではなく「人物分析」ということにもなるだろう。つまり、「作家的特性」を分析的に論じたいのではなく、端的に「この人はこういう人なのではないか」ということを作品を通して論じたいのであって、その人が「作家」だから論じたいのでもなければ、「作家」として論じたいのでもない。あくまでも、一人の「人」として論じたいのだ。
では、どうして藤本タツキという人気作家を、わざわざ「人気作家であること」「作家であること」「漫画家であること」を抜きにして論じたいのかと言えば、この人が非常にユニークな「人格」というよりは「キャラクター(人格特性)」の持ち主だと感じからだ。
ただし、ここで「人格」と書いたからといって、私がこの人の「人格」について、立派であるとかそうでないとかいったふうなことを書きたいのではない。そうした「社会的価値観」による評価をしたいのではなく、あくまでも「キャラクター分析」がしたいのであり、そのことによって、この人の、たぶん、あまりハッキリとは理解されていないであろう「ユニークさ」を明らかにしたいのだ。
そして、どうして、私がこのように、この人に興味を持ったのかというと、この人が、ある意味では、私と「真逆」と言っても良いような傾向を持った人で、そこが「面白い」と思ったからだ。
したがって、私には「どうしてこの人が、こういうキャラクターなのか」といった「心理分析」はできない。あくまでも「こういう人なのだ」という「現にあるところのもの」を、説明するだけである。だから、「評価」ではなく「分析」だと言うのだ。
では、「藤本タツキ」と呼ばれているこの人の、何がユニークなのかというと、それは「表面的」である点だ。「奥行き」が無いに等しい。一一ただし、これは「薄っぺらだ」と否定しているのではない。そうではなく、「意味」だとか「観念的な奥行き」だとかいったものが無い、という意味だ。つまり、この人は「そのまんま」の人で、「裏や表」もなければ「本音も建前」も無い。そういった「観念的なもの」が、ほとんど無いに等しい人なのだ。その点が、私とは「真逆」なのだ。
ここまでの記述でもお察しいただけようが、私は「意味」ということに、こだわりのある人間だ。より正確に言うなら、「意味」というものに惹きつけられてしまう、それが避けられない人間なのだが、この人「藤本タツキ」は、そうしたものとはほとんど無縁な感じで、そこが私には、不思議でもあれば、面白くもある。
すでに「結論」的なものは書いてしまったので、あとは、こうした「人物理解」に至る「論証」をするだけなのだが、その前の前提として、私が、この短編集2冊を読むに至った経緯を、簡単に語らなければならない。なぜなら、私がこの人について、どの程度のことを知った上で、このように分析したのかと、そのあたりを明らかにしておかなければならないからだ。
例えば、私は、この人の代表作である『チェンソーマン』を読んでいないし、この先も読む気がない。これまでに読んだ、この人の作品は、この短編集2冊以外では、1巻本の長編『ルックバック』のみである。
そちらについては、すでにレビューを書いており、そこに、初めて藤本タツキの作品を読むに至った経緯を詳しく書いているから、ここでは、そこまで詳しい説明を繰り返すことはしないが、要は、『チェンソーマン』がアニメ化されるということで、『ルックバック』と『短編集』の3冊が続けざまな刊行された2021年当時、あちこちで藤本タツキが話題になっていたので、私は、刊行されたばかりのこの3冊を、試しに読んでみることにしたのである。
ところが、もともと、知らない作家であり、さほどの興味もなかったせいで、私はこの3冊を積読の山に埋もれさせてしまい、ずっと読めないで来た。
だが、先日、その積読の山が崩れて、その中からこの3冊が出てきたので、この機会に読むことにした、という経緯である。
3冊の中で最初に読んだ長編『ルックバック』は、「よく出来た作品」であり、その「よく出来ている部分」を分析したレビューを書いたのだが、しかし、だからと言って、特別に「面白い」と思ったわけではなかった。あくまでも「よく出来ている」という点で、高く評価しただけである。
ところが今回、『短編集』を読んでみて、私がこれまでこの人に感じていた、ささやかな「違和感」の正体が分かったような気がしたのだ。
だから、これから書くこのレビューは、「作品論」ではなく「人物論」になるしかなかったのである。
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『ルックバック』を読んで感じたのは、
といったところだろうか。
で、私が最初に引っかかったのは、アニメ化された『ルックバック』についての、この人の「原作者としてのコメント」であった。それは、
私はもともとアニメファンだから、このアニメ版『ルックバック』はそのうち見ようとは思っていた。
いまだに見ていないのは、暑い中を出かけるのが嫌だったという、その一点に尽きる。
だから、そんな私からすれば、作者のアニメ『ルックバック』に関するコメントは、端的に言って「こいつ馬鹿か?」というものだった。
別に、ことさらに藤本タツキを馬鹿にしようというのではない。ただ、すでに六十を超えて、親子ほども歳の離れた私にとっては、藤本は「若い漫画家』の一人に過ぎず、売れっ子作家であることや有名人であることなど、ほとんど何の意味もないから、素直にそう思っただけなのだ。たが、私と同じように思った人は、意外と少なくはないはずである。ただ、私のように、このように公然と書いたりはしないだけであろう。
では、どうして「多くの人」も、私と同じように思っただろうと考えるのかと言うと、それは私がアニメには詳しいからだ。
アニメに詳しい人なら、前述の藤本のコメントは、「畏れ知らず」な発言としか思えないのである。
例えば、藤本タツキが、漫画『DEATH NOTE』の作画担当者であった小畑健くらいの画力があるのならば、ここまでは言わない。だが、率直に言って、藤本にはそこまでの「画力」は無い。
で、ここで問題になるのは、劇場用アニメの作画監督を務めるようなアニメーターというのは、こと「画力」においては、大抵の漫画家では太刀打ちできない、圧倒的な力量の持ち主であり、言うなれば、「絵」の職人的な「エリート」である、という事実である。
言うまでもないことだが、アニメーターというのは、自分で「お話を作る」ことができなくても務まるのだが、その分「画力」が無くては務まらない職業だ。「画力」がすべてであり、それさえあれば、特別な知力もいらないし、人格も関係ない。
そして、今の時代は、アニメーターに憧れる若者が大勢いて、「画力」の平均レベルもおのずと高く、「絵が上手いだけ」の若者なら、それこそ掃いて捨てるほどいる。こうした事実は、例えば「pixiv」などを覗けば、すぐにわかることなのだ。
で、そんな絵の上手い若者が山ほどいる中から、選抜されてアニメーターになる者がいて、その中でも、特別に「画力」のあるものが作画監督を務めるのだから、作画監督を務めるようなアニメーターというのは、言うなれば「エリートの中のエリート」なのである。こと、「画力」に関しては、だ。
だから、「絵も描ければ、お話も作れ、しかも個性がある」といった漫画家である藤本タツキが、こと「画力」に関しては、アニメ版『ルックバック』の作画監督やメインの原画家などに劣っていたとしても、別に恥じるようなことではない。そうしたエリートアニメーターたちが持たない能力を、藤本は持っているからである。
ただし、そうだとしても、つまり「恥じる必要はない」としても、普通の漫画家なら「私よりも上手い」とは、コメントしないものなのだ。
なぜかと言えば、漫画家はその漫画家なりに「画力」には自負を持っているから、「こいつ、私よりも上手いな」と思っても、なかなかそう正直には語れない、ということが、まずある(例えば、心の中で「このアニメーターは、たしかにうまいけれど、絵に個性が無い」とか「魅力が無い」などと考えて、自己正当化してしまう)。
次に、自分の「画力」に自信がない漫画家は、わざわざ「私より上手い」などとは言わない、ということもあるからなのだ。
一一つまり、普通の漫画家ならば、アニメ版の作画が、自分よりも上手かったとしても、わざわざそのことを語ったりはしないのだが、藤本タツキの場合は、そうした「妙なプライド」が無くて、まるで「子供」のように「上手い!」と言ってしまうのだ。
そこが、ユニークな「人格特性」であり、こうした特性は、まるで『ルックバック』も登場する「京本」のようなのである。
自分も十分に「並外れた部分」があるにもかかわらず、自分が欲しいと思う才能を持っている人に対しては、嫉妬するのではなく、素直に感心して「藤野先生!」などと呼んでしまう「ナイーブさ」を、藤本タツキは「京本」と共有しているのだ。
だからこの人が、アニメ『ルックバック』を見て「泣いてしまった」という「ナイーブさ」も、こうしたことから、よく理解できる。
藤本は、アニメ版『ルックバック』を、「原作者」の目で鑑賞したのではなく、一人の作品鑑賞者として「見てしまった」から、素直に感動することもできたのだ。
つまり、藤本タツキという人の「人格特性」というのは、作家であろうとなかろうと、「普通の人」なら持っている「観念性」を、ほとんど持っていない、という点にある。
藤本タツキは、「上手い絵を見たら、上手いと思い」「感動的な作品を見たら、素直に感動する(してしまう)」人なのだ。
対象作品を、「作家の目で見たり」「その意味するところを考えたり」はしない。「評価する」のではなく、ただ「鑑賞する」のである。いや、してしまう、のだ。そして藤本は、その「感じたことを、そのまま口にしてしまう」のである。
これは、「素直」であり「ナイーブ」という意味では「美点」なのだが、社会的には、少々問題がある。
どういうことかと言うと、「立場」に対する配慮が無いに等しいのだ。それは単に「原作者」「人気作家」ならば、もっと「それらしい」という意味での「重々しいコメント」をして、今の立場の裏付けを示すべきであるといった「社会的な配慮」だけではなく、自分自身の内面においても、「私は作家だから」「私は原作者だから」ということを、ほとんど意識しない、そんな「天然」的な素直さが、「美点」でもあれば「弱点」にもなりかねない、という点にある。
藤本の場合、その「素直さ」「ナイーブさ」は、たぶん「天然」であるからこそ、「悪気なく、社会的には問題のある発言や表現を、意図せずに、してしまう恐れもある」のだ。
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例えば、『ルックバック』を読んで引っかかったのは、「引きこもり」である「京本」の描き方であり、そのリアリティの無さだ。
たしかに「京本」は、可愛げのある魅力的なキャラクターではあるのだが、普通の意味で「引きこもり」には見えない。
現実には、「京本」のような引きこもりも稀には存在するのだろうが、ここで問題としているのは「フィクションの中でもリアリティ」の問題であり、要は「それらしさ=説得力」だ。
もちろん、若い読者であれば、そんな「小難しいこと」など考えずに、「京本」が魅力的なキャラクターであることを喜んで受け入れ、むしろ、そうであることを歓迎するだろう。
だが、いろいろな「フィクション」作品、例えば「漫画」「アニメ」「映画」「小説」などを長らく鑑賞してきた者が読めば、「京本」の「引きこもりとしてのリアリティ」の無さは、作品の「弱点」と見ざるを得ないのだ。
やはり、わざわざ社会的な問題でもある「引きこもり」を描くのであれば、それはそれなりに「説得力」や「リアリティ」を持たせるべきで、それを軽々に扱うべきではない、ということにもなるのだが、そうした配慮に欠けるから、「人格描写が不十分だ」ということにもなるのである。
だが、藤本の場合は、たぶん、そんな「意味」など考えて、創作を行っているわけではない。
彼は、彼が感じたこと、彼が描きたいことを描いているだけで、そこに「意味」だの「意義」だの「テーマ」だのといったものは、ほとんど無い。
ただ、自分が「面白い」と感じるものを描こうとした結果「こうなった」というだけなのである。「こういうことを語りたい」とか「これはこういう意味だ」とかいった「中身」というものが無い。
一一その意味で、藤本タツキには、そして、その作品には、「奥行き」が無く、「見えているものがすべて」であり、要は「表面」だけなのだ。
だが、繰り返し言うように、これは「批判している」のではなく、「特性を指摘している」だけであるし、ある意味では、褒めてさえいる。
なぜなら、藤本タツキの「表面性」とは、文芸評論家・蓮實重彦の言う「表層」と、ほとんど同じものであり、擬制としての「奥行き」だの「意味・意義」だの「本質」だのといった「フィクション」には捕らわれない、という「美質」だとも言えるからである。
で、そうした、藤本タツキの美質が、この「初期短編集」には、よく表れていたのである。
『ルックバック』を読んだだけの段階では、私は、藤本の「人物描写」が「薄っぺらい」と感じていた。たしかに、魅力のあるキャラクターにはなっているけれど「深みが感じられなかった」のである。
しかしまあ、漫画であれば、このくらいでも十分だ(水準は超えている)し、この作家の「長所」は、そうした「人物描写」にあるのではなく、後半の「仕掛け」や、その作りの上手さにあるのだろうと私は理解した。だから、「人物描写」について無いものねだりをするよりも、むしろ「この程度の人物描写」に酔わされてしまう「若い読者たち」ほど甘くはない私としては、そっちは特に問題とせず、多くの読者が「ただ驚くだけ」の「仕掛けの部分」について、「でも、このネタはすでに前例があるよ。うまく使っているとは思うけどね」という趣旨の、評価を語ったのである。それが前述の『ルックバック』レビューにおける、次の部分だったのだ。
したがって、私は『ルックバック』の「作りのうまさ」には感心したけれども、それでこの作家のファンになるほどのことはなかった。私としては、もっと「深い人間描写」を期待したのだが、そこまでのものは無かったからで、私のレビューに感じられるだろう「一歩退いた感じ」は、そうした「醒めた視線」に由来するものだったのである。
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だが、今回、2冊の『短編集』を読んでみて、「ああ、この人は、こういう人だったのか」とわかり、そこが「興味深かった」。
最初に書いたとおり、私とは「真逆」と言って良いその「特殊な個性」が「面白い」と思い、作品ではなく、もっぱらその「人物」に興味を持ち、惹かれたのである。
どういうところから、そのように感じたのかを説明しよう。
要は、この作者の17歳から26歳までの作品を収録した2冊の『短編集』に収められた作品は、多かれ少なかれ、いずれも「深い意味」など持たず、もっぱら「人物の表層的な個性」や「事件の表層的な事実」を扱っているだけで、それが「何を意味するのか」というような「意味」だの「テーマ」だのといったものが、「無いに等しかった」のだが、そこがかえって、ユニークだったのだ。
例えば、上巻にあたる『17-21』の冒頭に収めれられた漫画賞初投稿作「庭には二羽ニワトリがいた。」は、地球が「宇宙人」に占領されて、人間が食糧になり、ほとんど食い尽くされてしまった世界において、ニワトリの着ぐるみを着ていたために、ひそかに生き残っていた、若い男女の2人を描いた作品である。
その世界では、「宇宙人」たちは、それまでの人類のライフスタイルをそのまま模倣しており、ただ人類が「宇宙人」と入れ替わっただけ、のような世界である。
そんな「宇宙人」だけの学校の「ニワトリ小屋」で飼われているのが、くだんの「ニワトリの着ぐるみを着ていた、ひと組の男女」なのだ。
では、なぜこの男女は、地球を征服するほどの進んだ文明を持った「宇宙人」を、「着ぐるみを着ただけ」で、ニワトリだと誤認させることができたのか? それは、その「宇宙人」が「見かけ」だけで、対象を認識するという特性を持っており、その特性が極めて杜撰なものだったので、着ぐるみだけで騙せた、という設定なのだ。
で、これは、「設定的」「絵面的」には、いかにも「馬鹿馬鹿しいもの」である。
ほとんど「ギャグ漫画」と呼んでもいい、リアリティのかけらもない「設定」なのだが、しかし、この作品で描かれるのは、「女性」を守るために頑張る「男性」の姿であり、最後に明かされる、ちょっと捻った「真相」も、そうした「愛」の強さを示すものでしかない。
本作では、「宇宙人」が人間を食糧にするのは、人間が牛や豚やニワトリを食糧にするのと何も違いはなく、その意味で彼らは「悪」ではないという事実に言及がなされ、その意味では、一見したところ「重いテーマ」を扱っているようにも見えるのだけれど、しかし作者は、この点について、特に追求することもなく、ただ、登場人物の会話として描いているに過ぎない。
つまり、「人間を食う宇宙人も、ニワトリを食う人類も、同じことをしている」という「事実」は指摘しても、「だからどうだ」ということには、興味がなさそうなのだ。
ただ単に「そういう事実があるだけ」であり、本作は、それをアイデアとして使ってはいるけれども、だから「人類は、他の生物を犠牲にしなければ生きられないという事実の重みを顧みて、無駄な殺生や環境破壊の問題を、真剣に考えるべきである」といった「社会的な主張」には、ほとんど興味が無いようなのである。
一一つまり、同作「庭には二羽ニワトリがいた。」が描いているのは、「(見た目にも)可愛い女の子を守りたい」という、「ただそれだけ」のことなのだ。この作品には「深い意味」など無いのである。それを、つい「深読みしてしまう読者」が、いたとしてもだ。
で、そうした目で(理解で)、この2冊の『短編集』を読んでみれば、どの作品も多かれ少なから「自分が、可愛いと思った(好きだと思った、大切な存在だと思った)対象」への「愛着」を描いているだけで、それ以上の「深い意味」などは無い。その意味で、そこに描かれたものは、極めて動物的に「表面」的であり、人間的な「観念性」が、無いのである。
しかしながらこれは、むしろ「極めて珍しい」特性だと言えるだろう。
なぜなら、「普通の人間」というのは、たいがいの場合「中途半端に観念的」であり、その意味で「薄っぺら」だからだ。
例えば、ある作品に「感動した」とか「素晴らしい」といった評価を語る人の多くが、その作品には「深い意味があって、その点で価値の高い作品だ」ということを語っているつもりになっている。単に、動物本能的に「可愛い」とか「美しい」とか「泣かせる」だけかもしれないのに、そこに「意味」や「価値」があると思い込むほど、「薄っぺらに観念的」であり、物事を「ありのままに見ることができない」者が大半なのだ。
しかし、では、そうした人たちが、なぜ多いのかといえば、それは「その方が生きやすい」からである。
ある「現象」やその「価値」について、いちいち「これは何なのか?」「これに何の意味があるのか?」などと、大真面目に考えていたら、効率よく生きることはできない。
特別に思考能力に優れた「哲学者」ならば、そうしたことを考えることで「新たな価値」を生み出すこともできようが、凡人がそんなことを考えたって「馬鹿の考え、休むに似たり」ということにしかならないから、凡人というのは、物事を深く考えずに、「そういうものだ」で済ませるようにできているのである。カート・ヴォネガットのように、深く考えた上で、そういう結論に至ったわけではなく、何も考えずに、そのように思い込んでいるだけあり、そう生きてしまうだけ、なのだ。
で、そうした意味で、「普通の人」というのは「中途半端に観念的」なのだが、藤本タツキには、そうした「観念性」が、ほとんど感じられない。
その意味でこの人は、「天才的」でもあれば「カタワ」的でもあって、たぶん、それなりに生きにくい人生を送ってきた人なのだろうなと、そう察することもできる。
で、私が、そんな藤本タツキと「真逆」だというには、私は人並み以上に、いろいろ考えてしまうタイプ、だということである。
もちろん、「考える能力がある」のは良いことだが、「考えずには済まない」というのは一種の「呪い」でもあるから、その意味で、私は藤本に、ある種の「羨ましさ」を感じ、その点で惹かれるのだ。藤本のような「特性」のある人は、「無防備であり、その意味で危険が多い」とそう思いながらも、そうした「天然の無防備さ」に憧れる部分がある。
そしてこのように考えてくると、私が最初に挙げた、藤本の「おかしな点」についても、容易に説明がつくだろう。
アニメ版『ルックバック』についての、下のようなコメントである。
藤本タツキによる、このいささか軽率な発言が意味するのは、彼の「美点」でもあれば「問題点(弱点)」でもある、その「天然(天才)」性ということなのである。
彼は、こういう発言をすれば「他人が、どう思うだろう」などということを、くよくよと考える前に、その思いをそのまま語ってしまう人のである。
だから、それでトラブルになったことも、たぶん一切ならずあったはずだが、しかし、彼に悪気はなく、ただ子供のように、そうであるだけなのだ。
例えば藤本は、『17−21』の「あとがき」を、次のように書いている。
この「あとがき」で、藤本が語っているのは、要は、次のようなことだ。
「東日本大震災で、二度ほど現地に入って復興支援のボランティアをしたことがあるけれど、その経験で思い知らされたのは、自分の無力さだった。そして、それは、何か大きな不幸が起こるたびに思い起こしてしまうものだったのだけれど、『ルックバック』を描くことで、不思議に気持ちの整理のつき、そうした、無力感が解消される部分があった(し、描くことが自分にできることなのだという気づきもあった)。そうした意味で、自分が自分の存在の無意味さにもがいていた頃の作品をまとめてもらえたことは、意味があったのではないかと思います」
つまり藤本は、震災を目にして「自分にできることは何か」と、そう考える前に、動いていた。そして、実際に動いてみて、その結果のあまりの小ささを思い知らされ、無力感にとらわれ、それ以来、支援活動の現場に入ることはしなくなった。その意味では「挫折感」すら覚えていた。
けれども、そうした鬱屈を込めた作品を描くことによって、自分の「無意味」と思えた行動も、決して「無意味」ではなかったのだということを知ることができた。そんな「つまらないこと」であっても、ほとんど実益的な効果のないことであっても、「頑張っている人がいる」という事実は、どこかで誰かを励ましているはずだということに、藤本は気づけたのだ。一一ここに書かれているのは、そういうことなのである。
一方、私のような「観念的な人間」は、動く前に「先回りして考えてしまう」し、その「結果」を、ほぼ正しく「見積もってしまう」から、結局は、その結果のわかっている「ほとんど無意味な行動」は採らないことになってしまう。「そんなことを、私がやっても」「私がやらなくても」「私には、他にできることがあるはずだ」と考えてしまって、藤本のように「体が先に動く」ということはないし、その意味で「失敗」も「後悔」も少ない。
けれども、そうした「手堅さ」は、それはそれで「つまらないものだ」とまで、自分でもわかってしまうところが虚しくもあり、その点で、「見たまま、感じたままに動く」動物的な藤本タツキという人に惹かれる部分があったのである。
だが、あえて言うけれども、結局のところこれは、「個性の違い」であり「そのように生まれた」という違いでしかないから、私のような人間が「藤本のような、危なっかしくても、魅力的な人間に生まれてきたかった」などと考えるのは、所詮「ないものねだり」であり、自身の「美質」への無配慮でしかない。だから、私は私にできることをやれば良いし、それをやるべきなのだ。
そんなわけで、私はこのように、藤本タツキという人の「人物論」を書いたのである。
藤本タツキの読者が、何万人、何十万人いようと、こんなものを書ける人間は、他にはいないはずだからだ。
(2024年7月14日)
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