堤未果、 中島岳志、 大澤真幸、 高橋源一郎 『別冊100分de名著 メディアと私たち』 : 名著の〈快楽と苦痛〉
書評:堤未果、中島岳志、大澤真幸、高橋源一郎『別冊100分de名著 メディアと私たち』(NHK出版)
本書は、4人の著作家が4冊の名著をそれぞれに紹介したものである。紹介されているのは、
・ ウォルター・リップマン 『世論』
・ エドワード・サイード 『イスラム報道』
・ 山本七平 『「空気」の研究』
・ ジョージ・オーウェル 『一九八四年』
の4冊で、私の場合は『「空気」の研究』『一九八四年』は既読、『世論』『イスラム報道』はずいぶん前に購入しているものの、積読の山に埋もれさせて未読であり、本書『メディアと私たち』を読むことで、残りの2冊を読むきっかけに出来るのではないかと考えた。
なにしろ、4冊のとびっきりの名著を紹介しているのだから、感想はいろいろとある。
例えば、解説者の大澤真幸が示唆しているとおり、名著『「空気」の研究』における山本七平の「神(絶対者)を持たない者は、空気に抗えない」という理屈は、彼の信仰によって偏向された現実認識(誤認)だ、といった、多くの人が名著の権威ゆえに読み流してしまう問題点や、ジョージ・オーウェル『一九八四年』の高橋源一郎の解説は、日本の現状解説に他ならないばかりか、「本を読まない=言葉の貧困化」の問題提起として、より本質的なものだ、とかいったことも、高橋文を読み流しただけでは十分に意識されない点だろう。だから、そのあたりについても、しっかり論じておきたいのだが、それでは長くなりすぎるので、ここでは、大澤真幸による、次の問題提起を、「今ここ」の問題として採り上げておきたい。
簡単に言えば「耳に痛いことを言え」ということだ。その上で「有り難いご意見を拝聴させていただいた」と相手の言わせるように語れればそれがベストなのだが、なかなかそうもいかないので、ひとまずやはり「耳に痛いことを言え」ということになる。
例えば、本書の読者というのは「メディアの偏向」といった問題や、偏った情報依存(エコーチェンバー現象・サイバーカスケイド等)といったことに、問題意識を持っている人たちであろう。したがって、本書とはおおむね問題意識を「共有」しており、著者らの意見にも好意的であろうというのが、容易に予測されよう。
その一方、「ネット右翼」的な人たちについては「あの人たちは、自分の感情を補強してくれる、自分に好都合な、偏った論者の本しか読まない。彼らには、自己相対化なんていう意識が欠片も無く、およそ知性に欠けた人たちだ」といった認識も「共通」していることだろう。
これらの「共通認識」は、正しい。しかし、その「共通認識」を上書きする為だけに本書を読むのだとしたら、大澤真幸が指摘したとおり『知りたいことだけを知りたいと思っている』だけ、ということになる。
つまり、そのような認識で本書を読もうとし、それで満足してしまうような読者は「ネトウヨと五十歩百歩」でしかないのだ。
そしてそんな「事実」を伝えることこそが、大澤真幸の言う『知りたいと思っていなかったことを知らしめること』なのである。
だから、本書は素晴らしい本ではあるけれど、本書を読むにあたっては「そうそう、そのとおり」だなどという読み方は、本書の読者として、まったくの「失格」なのだと言わねばならない。
「そうそう、そうだよね。だからネトウヨはバカなんだ」という風に読んでしまった読者は、ネトウヨ並みに「バカ」なのである。つまり賢明な読者は、本書を「マスコミ批判」や「ネトウヨ批判」の本として読むのではなく、「私の痛いところを突いてくる本」として読まなければならないのであり、当然その感想は、「素晴らしい」の一語では済まされないのだ。
これは、本書で紹介されている4冊の名著についても、まったく同じであり、名著なんだから「素晴らしい」というような感想は「無自覚無思考の産物」だと考えるべきで、「その程度」に止まりたいと思わないのであれば、それらの本が、自身のどんな「無自覚」を突くものかを考えながら読まなくてはならない。
畢竟「批評とは、自己批評」のことであると言うのは私の言葉だが、きっと山ほど前例のある認識だろう。ならば、読者は、その批評文が「どこかの誰か(他人)」についてのものではなく、読者である「私自身」を批評したものとして読まなければならない。そうでなければ、どんな名著を読んでも、結局は、頭の悪い「自己満足」に止まってしまうのである。
初出:2019年10月1日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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