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真木悠介『気流の鳴る音 交響するコミューン』 : それは〈魔境〉である。

書評:真木悠介『気流の鳴る音 交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)

本書は、インディオの呪術師ドン・ファンの教える「世界理解」を肯定的に検討したものだが、こうしたものに惹かれる者の多くは、「近代合理主義的な世界理解」あるいは「合理的世界理解」に対して、あまり好意的な「理解」を持っていないのではないだろうか。
それを「合理的世界理解」に対する「懐疑」だと言い変えたとしても、実際には「好意」が持てないから「否定的な疑念」を持つのである。

しかしその一方で、「合理性」を否定して「霊性主義(スピリチュアリズム)」や「神秘主義(オカルティズム)」に「惹かれている」と公言するのは、さすがに「人目」が憚られるので、「疑問を感じる(懐疑する)」という「知的」な枠組みでの表現を用いて、世間向けのアリバイとしつつ、ありきたりな「合理的世界理解」への反発を表明しているのではないか。

そうした読者にとって、本書はきわめて「危険な本」である。
たとえば、本書に触発されて、オウム真理教の信者になり、あのテロ事件に加担した人がいたとしても、それはぜんぜん不思議なことではない。そうした「誘惑」が、本書には満ち満ちている。

むろん著者は、そうした「逃避願望」をくり返し否定しているにもかかわらず、事実として本書は、「知的逃避の具」に供されやすい道具立てで書かれているので、本書に興味を持った読者は、まず、自分の胸に手を当てて、自身の「願望」を仔細に検討してみるべきであろう。それを怠ったまま本書を読めば、読者の多くは、本書の中の「自分に都合の良い部分」だけを摘要して、自身の「逃避的願望」を強化することしか出来ないはずだからだ。

じっさい、本書に語られていることは、極めて「難解」である。
しかし、その「難解さ」とは「読んでも意味が分からない」という意味での「難解さ」ではなく、「頭で理解する分には、とても分かりやすい」し「面白く興味深い」にもかかわらず、本書を読み終えた時には、そこで要請されていた「態度」を、読者がまったく「身につけて(体得して)おらず」、結果としては、本書の意図を裏切ることになりがちだろうからである。

例えば、その態度をわかりやすく喩えれば、仏教における「卑下慢」が挙げられよう。
つまり「私は何も分かっていない」と語られる自認の意味は「私は何も分かっていない、ということを分かっている」という意味であり、そうした自己認識の本質は「私は非凡に賢明な人間である」という「自惚れ(慢心)の迷妄」でしかない、といったことと同じなのだ。

本書で語られる「自明性を疑い」「自己を解放し」「すべては無意味(あるいは、空)である」と悟った上で、しかし「統禦された愚」としての「今ここの生を生きる、という態度を選び直して、その道の上を、実際に歩く」ということは、頭で理解しただけで実行できるような性質のものではない。だからこそ、本質的に「難解」なのだ。

つまり、本書を読んで「理解した」と思った読者の多くは、禅で言うところの「魔境」にとらわている蓋然性が、極めて高い。「魔境」とは「偽の悟り」だ。
そして「偽の悟り」ほど、人を「悟り」から遠ざけるものも他にないのである。

本書の読者というのは、ほぼ間違いなく「きわめて真面目で知的」な人たちであろう。しかし、そうした属性は、多分に「罠」でもあり得る。
なぜなら自身を、そのようなものとして密かに自認自負している蓋然性が高いからこそ、そうした「当たり前の真面目さ」や「当たり前の知的態度」によって、「現実逃避」のための「救い」を見いだそうとし、距離をおかれるべきその「当たり前」を強化する「知的装備」として、本書を利用しようとしがちだろうからである。
しかし、そうした態度が、本書に語られるドン・ファンの態度と、むしろ真逆に近いものであることに、多くの読者はすぐに気づくはずだ。

本書の「難解さ」というのは、そういうことなのだ。
頭で「理解」したつもりになった瞬間に、それは「誤解」に転じている蓋然性が高い。本書を読んだが故に、本書で示された「世界理解」から、むしろ遠ざかってしまうという困難さ。それが本書にはある。

本書を読んだ後、自身が本書の「教え」に忠実であるか、それとも真逆に「自己愛的世界への執着を強化されただけ」なのかを測るものがあるとしたら、それは、実際に「世界の見え方」が変わった結果として、おのずと「日常の生き方」が変わったのか否かである。

本書を読んで感心し、その後にまた別の本を読んだ際には、すでに本書を「読み終えた本の冊数」に還元しているようでは、本書を本当に「読んだ」とは言えないだろう。本当の意味で「読んだ」、つまり「体得」したとは、とうてい言い得ないのだ。

本書を「体得」した人とは、本書を読み終わった後に「変わった人」ではなく、「変わろうとし続けるようになった人」だと言っても良いだろう。

本を1冊読んだくらいで、世界認識が変わるなどと思うのは、それじたい愚かなことだし、まして自分が変わったなどと思い込むのは愚の極みであろう。
私たちが本書に学ぶべきことは、自身の「世界認識」と「自己認識」を疑いつづける態度であろう。そして、そうした「懐疑的な私」という「自己認識」すら疑いつづけ、それでも、それに「絶望」せず、隠された「知的ニヒリズム」にも陥らないで、「日常世界を愛して生きる」こと。それが「ドン・ファンの教え」なのではないだろうか。

言うまでもないが、これはきわめて困難なことであり、私にはまったく自信が無いのだが、自己批判的自戒として、これをここに書いて留めておきたいと思う。

一一もちろん、これもまた「自己欺瞞」なのではあるけれども。


初出:2020年4月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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