上村真也 『愛をばらまけ 大阪・西成、けったいな牧師とその信徒たち』 : 近づきがたい 〈襤褸を纏った神々〉
書評:上村真也『愛をばらまけ 大阪・西成、けったいな牧師とその信徒たち』(筑摩書房)
もう20年以上も前の話だが、私は西成あいりん地区にほど近い場所で仕事をしていたことがあって、あいりん地区を興味本位で見物して歩いたことが何度もあった。
たしか萩之茶屋公園だったかの近くにあった小さな古本屋にも、一応チェックに入ったが、掘り出し物などなかったし、いかにもあいりん地区内らしく、日焼けした古い単行本と、ボロい文庫本が並んでいるだけだった。
当時のあいりん地区は、とにかく汚かったし、臭かった。
同じ西成区内と言っても、他の場所とはぜんぜん違った「特殊地域」であり、あいりん地区に入った途端、アスファルト舗装された道路には、ゴミが点々と模様のように落ちており、こびり付いていた。
また、道端には、路上生活者たちが昼間から酒と小便の入り混じった、すえた臭いをさせながら、何人も寝ころがっていた。その横には、打ち捨てられた生活ゴミが、山を成してそのまま打ち捨てられていた。
本書でも紹介されている、今は無き「あいりんセンター」の斜向かいに位置する、大阪環状線新今宮駅西口の高架下にも、同様の路上生活者がおおぜい住みついていて、そこも常に小便の臭いが立ち込めていた。
10年ほど前だったか、たまたま近くに行った際に、ひさしぶりにあいりん地区を覗きに行ってみると、道がきれいになっていて、見ると、お揃いのベストを着た清掃作業員の老人たちが、あちこちにいた。公共事業として、役所が彼らに清掃の仕事を斡旋していたのだ。これは、昔にはなかったことで、そんな老人たちが目に見えて大勢いたから、道路もすっかりきれいになったのであろう。
明らかに老人が増えていた。あいりん地区も高齢化したのだ。
20数年前のような壮年(男性)層は、ほとんど見かけなかった。いや、あの当時の壮年層が高齢化したのだ。清掃業務の斡旋は、あいりん地区における高齢者対策だったのであろう。
私にとっての「あいりん地区見物」は、はっきり言って「社会勉強」であった。
高校を卒業して、1年半、就職浪人をしたとはいえ、それ以降、私は正規社員としての安定した身分を持っていたし、高給はとらなくても、結婚はせずに、いわゆる「独身貴族」で来たから、カネに困ったこともなかった。子供の頃も、中の下くらいの家庭で幸せに育って、特に苦労したという記憶もない。
そして、若くして読書家になった私は、いかにも読書家らしく「社会にはいろいろな人たちがいるのだから、少しはそのことを知っておかねばならない」と、いかにも若い読書家らしい「観念的な理想論」から、「あいりん地区見物」を行うことにしたのである。
たしかに社会勉強にはなった。
ほかの地区では決して目にできない光景を、自分の目と鼻と耳で知ることができた。もちろんそれは、あの地域の表面を掻い撫でにした程度のことかも知れないが、それでも体験は体験である。
例えば、あいりん地区には、当時珍しかった「防犯カメラ」が所々に設置されていた。あいりん地区では、何度か労働者による「暴動」事件が発生したので、あいりん地区内の人々の動静を監視するために、警察が利用していた、要は「監視カメラ」だった。
また、あいりん地区内外には暴力団事務所もいくつかあったから、阪堺線新今宮駅前停留場の南側付近の辻々には「覚醒剤の売人」が立っていた。交番所の、ほんの目の前で、公然とではないにしろ、覚醒剤が売られていたのである。
一一20数年前の「西成あいりん地区」とは、一面においてではあれ、そんな場所だったのだ。
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本書の主人公である、牧師の西田好子が、そんな西成あいりん地区で教会を始めたのは、私が最後にあいりん地区見物に行った後、ということになるだろう。
それでも、普通の人が近寄りたくなる場所ではない。何度もあいりん地区見物に行った私だって、それはいっときの見物だからであって、そこに住みつくなんてことは、カネをもらってもお断りである。
ましてや、前科者やアルコール依存症などで「社会的落伍者」になってしまった人々と、おつきあいしようなんてことは、今でも考えはしない。本書でも描かれているとおり、彼らはとにかく「面倒くさい」人たちであり、そのくらいのことなら、それなりに人生経験を積んだだけの私だって、よく知っているからである。
たしかに、彼らが「社会的落伍者」になるにはなるなりの理由や経緯があるのだろうと思う。根っからの「反社会的人間」などというのはごく一部であり、ほとんどの人は「ついていなかった、弱い人たち」なのだと思う。だから、彼らにも救いの手がさしのべられなくてはならないと、頭では思う。
しかし、では、そう考える私が、彼らのために何かをするのか、具体的に動くのかと言えば、そんなことは当然しないし、できない。私は典型的な「頭でっかちの善人」なのである。
だから、西田牧師のような人は、本当にすごいと思う。とにかく彼女の真似など、したいと思っても、私には金輪際できないのだから、彼女の前では、「知識人」としてのきらびやかな冠を脱ぐしかない。
私は無神論者として「キリスト教」を勉強し、キリスト教の欺瞞を批判し、神父や牧師や信者学者たちの偽善を徹底的に批判している人間で、そうした「頭でっかちのキリスト教徒(知識人)」なら、毛ほども怖いとは思わないし、ましてや尊敬に値するとも思わない。彼らは、「知識人」として、不徹底だからである。
しかし、西田はそういうタイプのキリスト教徒ではない。彼女は、単純に心から「社会的に排除された人々」を救いたい、少しでもその人間性を回復させて、幸せになってほしいと、それしか考えずに、日々駆け回っているのである。
そんな「愛の怪物」のような人に、私のような凡庸な人間が、どうして注文をつけることなどができようか。
もちろん、私が今でも、あいりん地区に住みたいなどとは思わないのと同様、西田と個人的に付き合いたいなどとも思わない。頭では「偉大な人」だと、そう理解し評価してはいても、やはり「情の濃すぎる、騒々しいおばちゃん」にしか見えないであろう西田と、個人的に付き合いたいなどとは思えないはずだ。
西田と付き合うなど、単純に「面倒くさい」だろうし、またそれ以上に「彼女の真似はできない、彼女には決して叶わない」ということを、その姿や声から思い知らされるのがわかっているから、やはり「真の偉人」とは、付き合う相手ではなく、少し離れたところから「賛嘆の言葉」をおくっておくくらいが無難な存在であり、ちょうど良いくらいの関係だと思えるのである。
私は、西田が「すごい人」だからといって、「有名人」に対するのと同様に、脊髄反射的に近づいていくような不用意なまねのできる人間ではなく、自分の身の程を知って、無難な距離を取ることを考える、そんな小利口で「凡庸な人間」なのである。
だから、本書について、「感動した!」とか「素晴らしい!」などという、のんきな褒め言葉を連ねることなど到底できない。
ただ、西田や、彼女の信者たちが、その姿によって語りかけてくるところに、遠くで耳を傾け、ちっぽけで凡庸な自身を反省し、少しでも大きな人間になりたいと願うところから始めることしかできないのである。
初出:2021年6月25日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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