保坂和志 『読書実録』 : 〈趣味の問題〉ではなく
書評:保坂和志『読書実録』(河出書房新社)
ひさしぶりに保坂和志を読んだ。デビュー作から順にというわけではないが、どうした理由でだったか、単行本刊行時に読んだ『季節の記憶』が抜群に面白かったので、そこから遡ってデビュー作や、前後の小説や評論を読んだのである。
当然のことながら、そのすべてが面白かったというわけではなかったが、評論の方にけっこう面白いものもあったため、小説も評論も初期の作品はたいがい読んだと思う。
その後、しばらく時間が開いてから読んだ『カンバセーション・ピース』が期待したほどには面白くなく、あの分厚さがかえって冗漫さを増したと感じたので、その後の新刊も小説をときどき購入してはいたものの、すべて積読の山に埋もれさせてしまった。
だから、今回、保坂和志を読んだのは、本当にひさしぶりのことだ。なぜ、ひさしぶりに読んだのかと言えば、最近知り合った、二十ほど歳下であろう友人に、保坂の新刊である本書を薦められたからである。
その彼が言うには、最近の保坂和志は、結構アグレッシブで、世間に物申したりしており、古いファンに疎まれたり見放されたりしていると言うのだ。それは面白い。
保坂和志がかつての保坂和志のままなら、いまさら読まなくてもいいのだが、あの保坂和志が変わった、しかもアグレッシブにというのであるから、これは一見の価値があると思って、友人に薦められるままに本書を手に取った、という次第である。
で、どうだったかと言えば、それなりに面白いことを書いているので、面白いことは面白いのだが、それらはいかにも保坂和志らしい意見であって、昔と変わったという印象はない。しかも、基本的には、同じことをネタを替えながら変奏するばかりなので、後半はやや飽きてきた。
まあ、作家は同じことしか書けないものだと言えば、なるほどそのとおりなのだが、同じことを書いても楽しませるのが作家の力量だとも言えるだろうから、やはり飽きさせるというのは、工夫や力量が足りないということになるだろう。
前述の友人も指摘しているとおり、保坂和志という人は、真っすぐに進むことが嫌いな人である。だから、蛇行したり、寄り道をしたり、裏に回ったり、薮に踏み込んでみたりもする。そして、目的地らしきものへの到達を避けて、数歩手前で意図的に立ち止まって見せたりもする。
そうしたこと自体は「変化球」なのだから、面白いに決まっているのだが、変化球ばかり投げていたら、いずれはバッターに「保坂ならきっと、ここはこう投げて(書いて)くるだろう」と手筋を読まれ、ヒットされてしまうというのも当然なのである。しかし、読者に先読みされ、それで退屈されたり飽きられるというのは、推理小説で読者にオチを見抜かれるのと同様、作家の負けである。
こう書くと、保坂は「読書は勝ち負けではない」と言うのかも知れないが、保坂自身が認めるとおり、小説に良し悪しや巧拙があるのだとしたら、読者に飽きられるようなものを書くというのは、作家として「悪し」であり「拙」であり「負け」だと言われても仕方あるまい。また、保坂の好きな「夢」とは、先読みさせない点(夢の文法)に魅力があり、それは文学だって同じで、そう簡単に読者に先読みされるようではダメなのである。
もちろん、私がすぐに飽きて退屈してしまったのは、私が、保坂和志という作家を、ある程度は読んできたからであり(つまり、初読の読者ではないからであり)、かつ「同じようなものを読むことに、喜びを感じるような読者」ではなかったからであろう(「ばっかり」読者ではないのだ)。私は保坂和志のような変化球投手が好きなのだが、同じ球種しか投げられないのでは、飽きないでいろと言う方が無理なのである。保坂だって、同じようなことばかり書いている「自己模倣」小説家なんて好きではないはずだ。
もっとも、保坂和志の「趣味」は、かなりハッキリしており偏っているので、同じようなものが好きと言えば、私よりは余程そうであろうとも思う。
私は「変化球」投手が好きだと言っても、だからと言って「豪速球」投手が嫌いなわけではないし「直球勝負」が嫌いなわけではない。いや、むしろ大好きである。平たく言えば、「変化球投手」も「豪速球投手」も好きだし、さらに欲を言えば「両方とも投げられる投手」が理想である。野球でもそうだが、直球が切れるからこそ変化球も生きるのだ。
だから、どっちにしろ、ワンパターンで飽きられるとか、すぐに眼が馴れてしまって球筋を読まれてしまうような投手というのは、変化球投手であろうが直球勝負の投手であろうが、それぞれの特質において「中途半端」でしかないのだ。変化球にしろ直球にしろ、眼が馴れるなんてことがないほどのものであってこそ、わざわざそう名乗る価値もある。すぐに打たれるような「変化球」投手や「直球勝負」投手では、そもそも意味がないのだ。
そんなわけで、保坂和志に期待したいのは、「直球は嫌い」とか「小説は理屈じゃない」とか、それはそのとおりで良い、その「理屈」もありだと、私は、どっちの立場も広く認めるのだが、しかしそれはどっちの立場であろうと「面白くなければ話にならない」「退屈させるようでは話にならない」ということでもあるので、自分の好みや趣味が生きるようにするためにも、ライバルである「直球」や「理屈」の力を、よく知りもしないで侮ることは止した方がいいと思う。
程度の低い敵を設定して、それに比べれば、こっちのほうが断然面白いとか、こっちこそが文学である、などと言っても、それは偏ったものしか読んでいない読者か、ろくなものを読んでいない読者しか、納得させることは出来ない。
世界は広いのだ。そして「文学は何でもあり」なのである。しかし、それは「良し悪しや巧拙など無い」とか「傑作も駄作もない」つまり「すべては、趣味の問題でしかない」ということでは、無論ない。
読者の方に「鑑賞能力の限界」はあるだろうが、作品の方は無限に生み出されているのだから、いろんなタイプの傑作があるのだという現実は、認めて然るべきだろう。たとえ、自分には「わからないもの」があったとしても、である。だって、神さまじゃあるまいし、「わからないもの」は当然あるのだから。
保坂自身も、自分の「趣味の偏り」や「能力の限界」について、まったく無自覚なわけではなく、「昔から、こうだった」とか「三島由紀夫の某作品を読むのが苦痛だった」とか「ストーリ性豊かな作品を読むのはつらい」とか言ったことを書いてはいる。
しかし、それがそのまま「私の趣味じゃない」ということで無条件に肯定されており、「自分には見えない世界がある=自分には感受し得ない美がある」という事実を、本当のところでは、頑なに認めてはいない。認めたくないから、自分好みの作家を掻き集めてきて、その「権威」によって、自分の「趣味」を権威づけているだけなのだ。だからこそ、保坂和志の「変化球」は弱いのだ。飽きが来るのである。
そんなものは「嫌いだ」とか「書きたくない」とか言うだけではなく、「好きになれない(感受性がない)」とか「書けない」と言い変えることも、保坂和志の場合には必要なのだと思う。
もちろん、賢い保坂は先回りをして、「こうしか生きられない」という表現は、言葉の規定力(「書かないのではなく書けないのだ=表現されなかったものは、そもそも存在していない」という規定性)に縛られて、潜在力の可能性を「無いもの」とするものだ、と批判しているけれども、当然のことながら、小説家としての潜在力なら、小説家では無い「すべての人」も持っているのだから、それは当たり前のこととしてひとまず置いておいて、「小説家のことは小説家しかわからない」という規定によって規定されている「小説家」である保坂和志には、潜在力を発揮してみせて欲しい。
果たしてこれは「無理な注文」だろうか。
初出:2019年10月7日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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