萩尾望都 『バルバラ異界』 : 〈二律背反〉する欲望の果てに
書評:萩尾望都『バルバラ異界』全4巻(小学館)
いくつかの仕掛けが複雑に交錯して、まったく先の読めない作品でありながら、もうこれ以外はないという見事な着地点に到達する、「迷宮」のごとき作品である。
作者は、『いつもは最後まで構想を練って描き始める』し、本作も当初は4回連載で完結するつもりで構想していたものの、第1回を描き終えた段階で、このまま残り3回分を描いても面白くならないと、そう判断し、スケッチ帳に絵を描きながら想を練りなおしてところ、それまでメイン扱いではなかったキャラクター・キリヤが立ち上がってきて、自身の物語を語り出したので、それに導かれるようにして、物語の展開を改変し膨らませていった結果、現在あるような作品になった、と語っている(『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』所収「萩尾望都スペシャルインタビュー」より)。
よく言われることだが、長編作品を描く(書く)場合に、次の「2つのパターン」がある。
(1) 頭から最後まで、設計図をひいてから、そのとおりに描く(書く)
(2) 描き(書き)ながら、物語を作っていく
(1)のパターンの典型的なジャンルは「本格ミステリ」であり、いわゆる「謎解き小説」だ。物語の冒頭に「不可解かつ魅力的に謎めいた犯罪」が発生(謎の提示)し、それを名探偵が最後に「論理的に解き明かす」(謎の解明)というパターンの作品である。
この場合、提示された「謎」がいかに魅力的であっても、「謎解き・真相解明」が凡庸であったり無理があったりしては、失敗作にしかならない。
つまり、「魅力的な謎」と「魅力的な真相解明」の両方が揃っていなければならないのだが、この両立はきわめて難易度の高いものであるから、通常は、「最後で腰砕け」にならないように、最初から最後まで、きっちりと「設計図」を引いた上で書かれるものなのである。
ところが、このパターンには弱点がある。「決定された筋」に「登場人物」が従属させられるために、キャラクターの魅力や内面描写が犠牲にされがちなのだ。設計図どおりに着地させるには、登場人物の「好きにさせる」わけにはいかないのである。
また、だからこそ「本格ミステリ」は、しばしば「人間が描けていない(生きていない)」と評され、だから「文学ではない」「つまらない」と批判されることも少なくないのだが、要は「本格ミステリ」の場合、「人物」や「エピソード」ではなく、それを犠牲にしてでも、「作品全体の構成美(機能美)」を優先するジャンルだと言えるのである。
そして本作『バルバラ異界』の場合、当初は(1)のパターンで構想されたけれども、連載が始まってすぐに、このままでは膨らみに欠けて面白い作品にならないと作者が気づき、想を練り直していたところ、幸いキャラクターが予定外の自己主張を始めたので、そちらに賭けることにして(2)のパターンに切り替えられ、その結果、本作の「複雑な豊かさ」が生まれたのだと、そう言うことができるだろう。
言うまでもなく、(2)の描き(書き)方は、一種の「博打(賭け)」である。下手をすれば、キャラクターの暴走に作者が引き回されたあげく、まとまりのつかない破綻した作品になってしまう怖れがあるのだ。
一方、うまくいけば、本作がそうであるように、「設計図による制作作品」には望めない「面白いノイズ(あるいは、倍音)」が含まれた「幅のある作品」になる。
そして本作が、このような「賭け」に勝利し得たのは、無論、作者の非凡な「統制的表現力」のせいだと言えるだろう。「キャラクターが、勝手に立ち上がってきて動き出す」とは言っても、それはキャラクターがデタラメに自己主張しはじめるということではなく、あくまでも作者の「無意識」の反映として動きはじめるからこそ、キャラクターが自由に暴れまわっても、結局のところ、物語は「作者の掌の中」に、きちんと収まるのだ。
そしてこれは、作者が、「理性(的判断)」として表面化しないその「無意識」においても、広範かつ強固な「世界観(に基づく判断力)」を持っていればこそなのである。
そしてまた、本作が「夢の中に入る」「夢と現実がつながる」「夢が現実を改変する」物語であることを考えれば、作者が「無意識」の力を借りたというのは、まったく正しい選択だったと言えよう。
「無意識」とは、何が隠れているかわからない場所だからこそ「無意識」なのだが、だからこそそこには「理性による設計図(判断)」を超える「欲望のマグマ」が潜んでいるのであるし、その「秘められた力」を適切にコントロールしたからこそ、真の意味での「夢と現実=無意識と理性」を貫く物語が書き得たのだと言えよう。本作の「傑作」性とは、そのような「割り切れない要素の豊饒さ」を、「物語の枠」の中に引き入れたところにあったのである。
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さて、以上は、本作が「傑作」である所以を説明したものだが、ここからは「本作のテーマ」と作者の関係について、論じてみたい。
本作で、読者の誰もが問われるのは、中条省平が前掲の『別冊NHK100分de名著 時をつむぐ旅人 萩尾望都』所収の『バルバラ異界』論「現代の巫女が生みだしたSFの枠を超える傑作」の中で語ったところの「原初の海一一孤独の論理VS.つながる論理」の問題である(P109)。
簡単に言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』で描かれた、「人類補完計画(=全人類の融合一体化)」を是とするか否とするかだ。
私は、本作『バルバラ異界』を読む以前に書いた、萩尾望都の長編エッセイ『一度きりの大泉の話』のAmazonレビュー「残酷な神が支配する…」(2021年4月23日)の中で、萩尾望都を評して、次のように書いた。
萩尾は『一度きりの大泉の話』の中で「少年愛というものが、自分にはよくわからない」ということを繰り返していたが、「少年愛」というものが、竹宮惠子の考えるようなものだとすれば、それは萩尾望都には、たしかに理解不能だっただろう、ということである。
これについては、小谷真理が前掲書『時をつむぐ旅人 萩尾望都』所収の『トーマの心臓』論「究極の愛と、解放される魂」の中で、次のように語っている。
つまり、萩尾望都には、竹宮惠子が考えていたような、「性愛」要素を濃厚にを含む「少年愛」というものが、理解できなかった。
萩尾は、それ以前の「親子」関係において「密着型」の経験から疎外されていたための、「密着型」のひとつである「(オーソドックスな)竹宮惠子型の少年愛」というものが理解できなかったのだ。
無論、萩尾望都の中にも「密着型愛(情)」に対する欲望があり、その成就への欲望はある。だが、それが生育環境において満たされなかった萩尾の場合には、「性愛」という限定的テーマ以前に、「親子関係」や「友人関係」に代表される一般的な「他者との繋がり」という問題として、否応なく探求されざるを得ず、そうした「願望」の究極的かつ象徴的な形が「全人類の融合一体化」だったのである。
つまり、本作『バルバラ異界』で問われたのは、萩尾の中にもあった「孤独の論理VS.つながる論理」の葛藤であり、萩尾個人の選択的回答は、前者の「孤独の論理」であったけれども、それを「作品の結論」とはせず、読者個々に対して「どちらを選択する?」と、あえて問うて見せたのが本作であり、本作の「豊かさ」だったのだ。
前掲論文で中条省平も書いているとおり、人間というのは「孤独の論理」と「つながる論理」の、どちらか一方を選択しただけでは済まされない、「個人的」かつ「社会的」な存在である。
しかしまた、「同調圧力が強い」と言われる私たち日本人の場合は、萩尾望都ファンであっても、萩尾望都のファンであることにおいて「同調圧力」を働かせてしまうような、「反・萩尾望都的」な傾向を色濃く持った民族だ、と言えるのではないか。
だからこそ、そうした意味で私たちは、本作『バルバラ異界』の発する問いに、真剣に向き合わなければならないだろう。
そして、それに真剣に向き合うとは、「どちらかを選択して、それでおしまい」ということではなく、常にこの「選択による完結を許さない問い」を、自身に突きつけ続けることなのではないだろうか。
そしてその意味で私たちには、やはり「原初の海への回帰」は許されてはいないのだ、と考えるべきなのではないだろうか。
初出:2021年5月30日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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