Amazonで削除された、太宰治『人間失格』のレビューを、昨日、noteの方へ転載再録したが、それに合わせて、太宰治という「人間」を考える上で参考になるであろう「二つの事実」を、ここで補足的にご紹介しておきたい。
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一つ目は、有名な「芥川賞懇願書簡」事件だ。
こちらの方は、かなり有名だから、少なくとも太宰治ファンなら耳にしたことくらいはあるだろう。だが、その事実から目をそらしたいし、そらしがちな現実でもあるので、確認のために、ここでは下の記事を紹介しておきたい。
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二つ目は、太宰治ファンでも、あまり知らないエピソードだろう。
筆者は、『虚無への供物』などの作品などで知られた中井英夫。中井が大学生時代に、大学の文芸誌に太宰の原稿をもらうため、太宰宅に通っていた当時のエピソードである。
ここからも分かるとおり、太宰治が「人柄の良い人」だったというのは間違いない。しかし「弱い人」だったというのも、間違いないのではないだろうか。
弱い人間を「弱い」といって責めても、詮なきことだということくらいは、私だって重々わかっている。
しかし、その「弱さ」を私が「肯定しない」し、できないのは、こんな「弱い人間」に自己投影して、自身の「弱さ」を権威づけ、正当化してしまうような「弱い人間」が少なからず量産され、「太宰の理解者づら」をするというのは、なんとも「醜怪」なことだとしか思えないからである。
太宰治という人が目の前にいれば、きっと年上の私は「しっかりしろ。お前には才能があるんだから、大丈夫だ、生きていける。もっと自信を持て」と、これも詮なき励ましを、同情を持ってしたことだろう。
だからこそ「自殺」してしまったこの「弱い男」を、自己正当化のための「食い物」にするような「読者」には、私は満腔の嫌悪を感じざるを得ないのである。
「いったい、あなたは、理解者づらで、太宰治ファンだと声高に語るけれど、太宰ファンが、己を自慢げに語ることほど不似合いで、矛盾した態度もないのではないですか。太宰に心から共感するというのなら、こんな情けない自分ですみませんというくらいの態度の方が、むしろ自然だし、当然でもあれば必然なのではないのでしょうか?」と、そんな「若き中井英夫」のような憎まれ口のひとつも叩きたくなるのである。
(2021年10月19日)
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