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小林秀雄、 大岡昇平、 そして 大西巨人

書評:大岡昇平『小林秀雄』(中公文庫)

本書を読んでよくわかるのは、小林秀雄という「毒舌家」の印象がある人が、意外に「先輩後輩の関係性」にこだわる人であったという事実である。

もちろん、「こだわる」というのは「先輩には媚びへつらい、後輩には威張る」ということではない。
「先輩後輩の関係性」に「こだわる」というのは、「こだわる」からこそ「先輩にも厳しくし、後輩には先輩ぶらない」という態度にもなる。無論、これは一般的には「好ましい」ことではあるけれども、批評家として「理想的」な、いわゆる「中立公正」的という意味での「自然体」でないことだけは確かだ。
つまり「文壇でのつきあいなんかないから、その意味で、俺には先輩も後輩もない」という「自由で中立的な立場」ではない、ということだ。
もちろん、小林秀雄なら「中立公正などくそくらえ」と言うかも知れないし、事実として小林は、中立公正ではなかったのである。

一方、大岡昇平という人は、論理的で、公正で、正直な人であると思うし、私の場合、小林秀雄は嫌いだが、大岡昇平は好きな作家だ。例えば、大岡の、

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

という、反骨的「憎まれ口」が大好きで、よく私の「共感する言葉」として引用させてもらったりしている。

しかし、そんな大岡昇平でさえ、名実ともに「師」である小林秀雄に対しては「忌憚」があった。つまり「遠慮なく批判する」ということが出来なかったようで、大岡の小林秀雄関連の文章を集めた本書を読んで、私は、その感を強くした。
意外にも、大岡昇平という人は「世間並み」に「先輩後輩の関係性」に縛られてしまっていたのだとわかって、少々残念であった。

しかしまた、大岡昇平という人の、こうした「弱さ」「不徹底さ」を鋭く指摘していた人も当然いた。
誰も彼もが、大岡昇平という、大家でもあれば、人柄的にも愛された人を、それだからといって批判できなかったわけではない。
「さすがは先生!」と褒めるだけなら馬鹿でもできる。だが、大物を適切に批判するというのは、能力と見識と矜持がなければ、到底できないことなのだ。

大岡昇平の「弱さ」「不徹底さ」を批判した人とは、『神聖喜劇』で知られる大西巨人である。

大西は、基本的には大岡昇平を高く評価していた。大西は、大岡の七つ下だが、同じ「兵隊体験者」であり、ともに「戦争文学」の大傑作を物した作家であり、お互いに「理の勝った」人間であるという共通点もあって、何度か、お互いに共感を持って対談もしていたはずである。

しかし、大西巨人は、大岡昇平が「俘虜になったという汚点のある人間が、陛下の前に出ることは恥ずかしくて耐えられない」との理由で「芸術院会員推挙」を辞退した件について、戦争の悲惨さを体験したはずの大岡が、このような理由で、天皇の手からの任命を辞退するのは、誤魔化しめいていておかしい、と感じたようだ。

大西巨人のこの「大岡昇平批判」をどこで読んだのか失念したので、正確に引用することはできないが、大西が大岡昇平のこうした「曖昧さ」について、共通点を見出したのが、次のような、大岡の、たとえ話風の「戦争体験」エピソードである。
これも「記憶」で書くので、細部は間違っているかもしれないが、おおむね次のような話だ。

「私と戦友が、二人横並びに戦場のジャングルを歩いている。するといきなり前方から敵兵の放った鉄砲の弾が飛んできて、避ける暇もなく、隣の戦友に命中して、戦友は死んでしまう。ひとつ間違えれば、私に当たって、私の方が死んでいたかもしれない状況だった。幸い私は生き残ったが、その戦友に対する負い目のようなものが、戦後も消えない」というような話だ。

これは、一般的な「感情」論としては、まったく自然な話ではあるのだが、徹底的に「論理的」であろうとする「厳格主義者(リゴリスト)」たる大西巨人は、この大岡の「戦友に対する負い目」は、理不尽なものであるとし、理不尽な感情を理不尽なままに受け入れる大岡の態度に、疑義を呈していたのだ。

つまり、たまたま隣を歩いていた戦友に敵の弾が当たって、戦友が死んだのは、言うまでもなく大岡の責任ではない。大岡には、戦友の死に対して、負うべき非はまったく無く、何の責任もない。
戦友の死について、責任を問われるべきは、戦友を撃った敵兵だとも言えるし、戦友を戦場に送った当時の日本の上層部の人間であり、特に「大元帥」であった「昭和天皇裕仁」でなければならないはずだ。

ところが、大岡は、無念の死を遂げた戦友のために、そうした「直接責任者」の非を鳴らし、責任を問うことはせず、奇妙にも、近視眼的かつ感情的に、自身が責任を引き受けようとするのだ。

もちろん、「責任を引き受ける」というのは、一般的には、立派な態度だ。今の政治家は、大岡の爪の垢でも煎じて呑むべきであろう。
しかし、感情的にはどうであれ、「筋違いの責任を引き受ける」ことで、「本来責任を取るべき人たちの責任回避を(結果的にではあれ)助ける」というのであれば、これは論理的にも倫理的にも「間違った」行動だと言わねばなるまい。
また、おセンチな婦女子ではあるまし、読者の方も、感傷的に「大岡の非論理的な引き受け」に感動しているだけでは、視野が狭く、頭が悪いと批判されても仕方がないのである。

ともあれ、だからこそ大西巨人は、大岡昇平のこうした「感傷性」に由来する「弱さ」「不徹底さ」が、前述の、大岡昇平らしくない「芸術院会員推挙辞退の弁」にも表れている、と見たのであろう。

そして、こうした観点に立てば、大岡昇平が、「師」である小林秀雄の「戦争加担」と「戦争からの引きこもり」を批判できなかったというのも、納得できるわけなのだ。

大岡昇平という人は、間違いなく「論理的で、公正で、正直な人」であったけれど、しかし、大西巨人ほど「徹底的に論理的」な人ではなかった、と評してもいいだろう。
どこか、その「お坊ちゃん」らしい優しさと弱さが、大岡昇平にもあったのではないだろうか。そして、そうした側面は、本書所収の文章の端々にも感じられたし、感じられないようでは「文学鑑賞者」としてはダメである。

大西巨人は、安易に「情に流される」ことを良しとはしなかった。「情に流される」ことで「いい人だ」と褒めてもらいたがるような類いの「俗情との結託」を峻拒した人であった。

大西巨人は、世間から「非情」呼ばわりされようとも、まずは「論理的かつ客観的」に物事を観察し、それを「論理的かつ客観的」に評価しようと努力した。
大西巨人も「人の子」であれば、情実に流されることが完全になかったわけではないだろうが、大西はそれを意識的に自分に戒めて生きた。それが、次のような言葉となって遺されている。

『果たして「勝てば官軍」か。果たして「政治論争」の決着・勝敗は、「もと正邪」にかかわるのか、それとも「もと強弱」にかかわるのか。私は、私の「運命の賭け」を、「もと正邪」の側に賭けよう。』 (大西巨人「運命の賭け」より)

これは、小林秀雄は無論、大岡昇平にも持ちえなかった、「冷徹な眼」たらんとする「覚悟」の言葉である。

初出:2021年6月3日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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