プラトン『テアイテトス』 : 「知識」と言うより〈知恵〉
書評:プラトン『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)
プラトンの言う「知識」というのは、今の日本語の語感からすれば「知恵」に近いと言えます。
つまり平たく言うと、プラトンの言う「知識」とは「生きた知識」のことであって「オタク的知識(他に活用のできない、丸暗記情報)」のことではありません。
ですから、本書における「知識とは何か」という問いの答は、「そりゃ情報でしょ」ということにはならないのです。プラトンの考える「知識」とは「人を成長させる知識」だということになりますが、では「人を成長させる知識とは何か」となると、これは一筋縄ではいかない難しい話になります。そして本書は、その難問に取り組んだ本だと言えるでしょう。
私はもともと、プラトンにもギリシャ哲学にも興味がなく、プラトンはずいぶん以前に1冊くらいは読んだかなという程度だったのですが、たまたま友人が「面白かった」と奨めるので、光文社の古典新訳文庫なら読みやすいだろうし、解説も充実しているだろうからと、読んでみることにしただけです。
ですが、と言いますか、ですから、と言うべきか、プラトンの本文はかなり難解で、ついていけない部分が少なくありませんでした。そもそも私は典型的な文系人間なので、ギリシャ哲学の持つ「幾何学的思考」の抽象趣味が苦手で、本書にもその特徴が出ていましたから、数式が出てきたときと同じように、しばしば脳みそにブレーキがかかってしまいました。
しかし、解説を読めば、本書の大筋の議論は理解できました。
細かい議論の部分にはしばしばついていけないのですが、そこで語られていること自体は、私が日頃「文学」や「批評」ということで考えていることと、本質的な違いはなかったからです。つまり「知恵とは何か」という設問は、「文学」や「批評」と切っても切れないもので、以前から自分なりに考えていた問題だったわけです。
本書を読む一週間ほど前に、私はLINEで、友人に次のようなメッセージを連投しました。
「とにかく、頭を使う習慣が無いですね。使わなくても困らないということもありますし、読書は娯楽としか思われていませんから、いくらたくさん読んでも頭は使わない。
せいぜい知識を得るのが精一杯で、得た知識の使い道を知らない。知識をひけらかすくらいしか使い道がなく、知識が思考を促すことにはつながっていかない。だから、皆と似たようなことしか言えない。所詮は、無思考の受け売りだから。」
「これは体制派でも反体制派でも同じです。どっちも、言ってることは金太郎飴です。自分の頭で言葉を練りこんでいないから、どっかで聞いたようなことしか言えない。」
「威勢よく賛成とか反対とか言っても、その根拠を論理的に、つまり説得的に語れない。なぜなら、賛成とか反対とか言っただけで、自分に何か考えがあると勘違いしているからです。
しかし、根拠もろくに説明できないような意見というのは「空念仏」にすぎません。そんなものなら。録音機でも発し続けることが出来ますよね。」
「賛成とか反対とか言うだけの意見表明が無意味なのは、面白かったとかつまらなかったというだけのレビューと同じで無価値です。根拠の示されない判断に価値なんて無い。
しかし、そんなものをレビューだ批評だと勘違いしている人がいかに多いか。
まともに批評書や評論文を読んでいないのだから、そうしたもののイメージが端から無いのです。」
「まあ、簡単に言うと、ダメな人は、自分のつまらない意見と同じ程度のつまらない意見しか言わない偉い人(権威者)を探し、能力のある人は中身を問題にするし、その能力がある、ということでしょうね。」
「自分の実力を測るには、ああだこうだ、あれが良いあれはダメ、というようなことではなく、キチンとこの意見はこうだからダメなのだと論破して見せることでしょう。それが出来なければ、まとまった意見を持てていないということです。
何か意見を持っているつもりになっているだけ、なんですね。」
「三行くらいのレビューで、評論家になったつもりの素人と同じことです。
思考というのは、結論ではなく、思考経路のことである、というのが、わかってないんですよね。」
「数学の問題について、それを解くのではなく、答を当てにいく、というのと同じです。」
「そうですね。
自信を持つことは大事ですが、根拠もなく威張るのは愚かなことです。
なんでそんなに上から目線で言えるの?と反問されたら、それはこうこうだからですよと、相手がぐうの音もでないくらい説明できないと、単なる空いばりと言われても仕方ありません。自分のことを説明できるのは、自分しかいないんですからね。
よく応答責任、説明責任と言いますが、何かを主張する以上は、その責任から逃れられないし、それが避けられるのは、有利な立場を嵩に着て威張る人だけです。
そして、それが恥ずかしいという気持ちがあるなら、必要とあれば、どんな人にも、例えば子供にもわかるように説明できるようにしておかないといけない。
それには、自分の考えを多方面からの検討して、隙なく矛盾のないものに練り上げていく作業が必要だと思います。」
われながら、だいぶ怒ってますね(笑)。
ここで言う「レビュー」とは「Amazonレビュー」を念頭においているのですが、私にすると「批評のヒの字もわかっていないレビューが多くて、イライラする」ということが、ままあるからです。
ともあれ、本書『テアイテトス』と読まれた読者なら、上の私の連投メッセージが、本書の内容と多くの部分で重なっていることに気づかれるでしょう。
具体的に言えば「相対主義」の問題(ミソクソ同等主義的意見の問題)や「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」といった考え方は、批評の問題と切っても切れないもので、文系人間にも無縁ではあり得ないからです。
ともあれ、本書の結論としては、「(プラトンの言う)知識」とは、(その重要性を認めつつも)「相対主義」の言う「あれもこれも同等に真の知識」という考え方は否定されますし、「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という考え方のほうも、大筋では間違いではないものの「それがすべてではない」というかたちで否定され、最終的な回答は提示されず、問いは開かれたまま、読者に投げ返されて終ります。
つまり、「(真の)知識とは何か」「知恵とは何か」という問題は、易々と完結的な答が出せるような簡単な問題ではなく、最終的には、すべての人がこの問題に取り組むことで、自己を深めていくのに必要な「問い」である、ということなのでしょう。
したがって、解説を読んでも、本書のすべてが理解できるわけではありません。
本書の訳者であり解説者である渡辺邦夫氏も『テイアテトス』というテクストに『四十年』近く取り組んできたほどですし、それでも『本書出版に向けた作業に入ったとき、途中で、よくもまあこんな高峰の登山をしようとしたものだ、と何回も思いました。』とおっしゃるほどなのだから、専門でもない素人が、さらっと一読してぜんぶ理解できるはずもないのだし、そんな顔をしてたら、それは素人のハッタリでしかないのでしょう。
ですから、本書は見かけによらず難解だということは認めつつも、しかし、自分に引き付けて読めば、まんざら縁のない話でもないという点で面白いとは言えると、ややひねくり回した言い方でオススメしておきたいと思います。
【おまけ】
本書の中で展開される「相対主義批判」「流動説批判」の部分の説明(「変化(流動)に、質的変化と位置的変化が同時に起こるとすれば、もはやそこには観察の基点がなく、同定のしようもないので、そもそも観察も判断もできない」といった説明?)が、物理学における、後の「観測者効果」の問題と似ていて興味深かった。
初出:2019年3月25日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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