小津安二郎監督 『お茶漬けの味』 : 小津的「理想の男性像」
映画評:小津安二郎監督『お茶漬けの味』(1952年・モノクロ映画)
本作『お茶漬けの味』は、小津の「中国戦線」からの帰還後第1作として、戦中に企画されながら、それが挫折した結果、約20年後、「戦後」になってから、「設定」を同時代用に大きく書き換えて作った作品である。
こうした経緯については、『戸田家の兄妹』(1941年)のレビューにも書いたとおりだが、本作『お茶漬けの味』が、いささか「物足りない作品」になってしまったのも、このようにして一度「時期を逸した」せいでもあろう。
ともあれ、まずは本作『お茶漬けの味』の「あらすじ」を、2つ紹介しておこう。
なぜ、「あらすじ」を2種類挙げたのかは、おおよそのところは、お察しいただけよう。
「不和夫婦の和解もの」とでも呼ぶべき本作において、この2種の「あらすじ紹介文」は、それぞれの視点が異なっており、読む者に与える印象が、大きく違っているのだ。
単純化して言うと、前者の(1)は「妻の視点」に立ってストーリーを要約したものであり、後者の(2)は「夫の視点」に立ってと言うか、「夫に同情的な立場」に立ってまとめられた文章だと言えるだろう。
だから、ハッキリと印象が違う。
(1)の「妻の視点」とは、
の部分で、要は、夫は「妻に無関心」で「妻の嫌がることを、(故意に)改めようとはしなかった」のであり、妻が、そんな夫に腹を立てるのも無理からぬところだろう、というような書き方である。
一方、(2)の方では、上のような「夫の難点」には触れず、
と書いて、要は、夫の妻に対する態度は、「無関心」なのではなく『鷹揚』であり、だから妻が遊び歩いていることについて、知っていても口出ししなかったのだ、という説明をしている。
したがって、作品を見ずに、こうした「あらすじ」の、どちらか一方だけを読めば、本作に対し、確実に誤った印象を持つことになるだろう。
(1)だけなら「愛のない夫に対する妻の反発と、その後の和解の物語」という印象を受けるし、(2)だけなら「わがままな妻が、不意の夫の不在を経験することで、夫のありがたさを知って、夫と和解する物語」ということになる。
で、どちらが、より正確な「要約」かと言えば、全体としては(2)の方だと思うし、それは、小津監督が本作の「狙い」を語った、次の言葉にも端的に表れている。
つまり、小津は「地味で寡黙だが寛容な男」の魅力を描きたかったのだろうし、それは、そうした「男の魅力」が、現実には、女性からの評価を得ていないという意識(不満)があったからであろう。だからこそ最後は「妻が、夫の魅力を知って(心の中で謝罪するかたちで)和解する」という話になっているのだ。
だが、無論、こうした「見方」は、「男性目線」のものでしかない。
当然、女性には女性なりの、要は「女性目線」の「言い分」、つまり「夫論」があるはずで、小津が考えたような「男の魅力」を、女性があまり高く評価しないのは、それなりの理由があるのかも知れないし、そもそも、小津が考えるような「男の魅力」など、所詮は「男のナルシシズムであり独りよがり」であって、客観的に存在するものではない、とさえ見られているのかも知れない。
要は、この映画の物語は、「夫は誤解されている」という前提に立ってのもので、「誤解しているのは妻」であり、平たく言うと「不和の原因は、妻の方にある」と言っているも同然のものなのだ。
そして、妻のそうした「夫への誤解」の原因は、妻の「鼻持ちならない上流意識」ということになってしまっている。「そんなお安いプライドばかり高く持していても、くだらないよ」という考え方が、本作の基調を成しているのである。
また、だからこそ(1)の「あらすじ紹介文」は、「妻が夫に不満を持つ、具体的な根拠」として「安タバコ」だとか「ねこまんま」だとかいった具体例を挙げ、妻がそれを嫌がっているのに、夫がそれを改めない「ためだ」というような書き方をしたのであろう。要は「妻を弁護した」のである。
しかし、こうした弁護が、あまり有効ではなく、映画自体を見れば、「やっぱり、妻の方が自分勝手でしょう」となってしまうのは、もともと、そういう立場で本作が撮られているからであり、「夫の具体的な問題点」についても、所詮は「めくじら立てるほどのことではない、些細な問題」を、小津監督が意図的に選んで投入したものだからである。
つまり、本作の中から「妻の立場」を正当化するような「物的証拠」を見つけるというのは、そもそも出来ない相談なのである。
特に、(1)の方で重要なのは、(2)の方では触れていない、次のような夫の発言である。
これは、夫の茂吉が「われわれ夫婦は、最初から破綻している失敗夫婦であり、失敗した結婚だったのだ」と思っているということを、今更のように、妻の妙子に突きつけた、ということになるのだ。
これは、当然のごとく妻の心を傷つける、いかにも「心ない言葉」である。
というのも、妻が夫に対して、いちいち突っかかるのは、「夫に期待してところがある」からであり、なんとか「仲良く暮らしたいと、どこかで期待している」からなのだし、それは妻の友人が「なんだかんだ言って、貴女は旦那さんが好きなのよ」などと指摘しているところからも窺えよう。
なのに、そんな彼女の、無自覚ではあれ、秘められた期待や夢を、夫は頭から否定し「すでに諦めていた」のだと、そんな事実を突きつけられれば、妻の方は、自分は独りでいきり立っていた「道化」も同然だったのだと、そう感じて当然なのだ。「あなたは、そんな冷たい、諦め切った目で私を見て、私を見放していたからこそ、何も言わなかったのね」ということにもなるのである。
つまり、これは「夫の寛容」ということでは済まされない言葉であり、妻が傷ついても当然の、残酷な言葉だったと言えるのである。
もちろん、妻の夫に対する要求や突っかかり方は、いかにも「幼稚」であり「感情的」なものだ。いかにも「世間知らずの、わがまま勝手に育ったお嬢さん」のそれであり、いかにも「女らしい非理性的な態度」だと、そう解されても仕方がないものなのだが、問題は、それを、男性である小津監督が、自分の考える「男性の頼もしさ(魅力)」を描こうとして、故意に「妻を幼稚に描いた」という点にある。
だから、本作を「今の女性」が見たならば、この「妻の描き方では、まるで悪役だ」と感じても仕方がない、と言うよりは、そう感じて然るべきものだと言えよう。いわゆる「フェミニスト」ではなくても、この「妻の描き方は、あまりに一方的であり、酷すぎる」と感じるのは、むしろ当然のこと(評価)なのだ。
まあ、小津安二郎監督が「戦前の人だから、仕方がない」と言ってしまえばそれまでで、私自身「こんな夫なら理想的だし、妻の方は幼すぎる」とは思うものの、それは「そのように作られている」のだから、そう思うのも当然のことでしかない。赤く塗ったら赤に見えるし、青く塗ったら青く見えるというだけの話なのだ。
言い換えれば、赤が赤、青が青だからと言うだけで、本作が「夫婦」や「男女」の仲を「見事に描いている」ということにはならないし、その意味で「よくできた作品」ということにもならない。
したがって本作は、「あえて批判するまでもない凡作」なのだが、ただ、こうした事実をわざわざ指摘しなければならないのは、小津安二郎という人を「神格化」したがる「映画オタク」が少なくないからこそなのだ。
「小津さんだって、ひとりの人間だったのであり、際立って聡明だったわけでも、凡作失敗作の無い人でもなかったのですよ」と、わざわざ確認しておく必要があったのである。
簡単に言えば本作は、夫婦間の「勧善懲悪の物語」なのだ。
つまり、「夫の苦労を察することもなく、注文ばかり多い悪代官みたいな妻が、夫の不在という不慮の事態によって、初めて自身の誤ちを気づかされて、心の中で、私が悪うございましたと改心する」というお話なのである。
したがって本作は、「悪玉が最後に改心する」という点だけはマシな、『水戸黄門』のような「男性向け痛快娯楽作品」だとも言えるのだが、こんなものでは、男性である私だって、とうてい褒めることはできない。
こんな、相手がた(妻側・女性側)の「失当」が無ければ勝てない、つまり「描けない」ような「男性の魅力」など、所詮は「アンフェア」な「ペテン」でしかないからである。
そんなわけで、小津監督自身が『あまり出来のいい作品ではなかった。』と認めているにも関わらず、「小津信者」のほうは、本作には触れたがらず、そのことで評価を避けているということなのであろうが、そうした態度は卑怯であり、間違いだ。なにより「男らしくない」。
本作における「夫婦の不和」の根本的な問題点は、ごく当たり前のことだが「夫婦間の、腹を割った話し合い」が出来ていなかった点にあるし、その点では、むしろ夫の方にこそ問題があったと言えるだろう。なぜなら、夫の方の「僕さえ我慢すれば」という態度が、妻の「誤解と苛立ち」を亢進させたという側面が否定できないからだ。
それこそ、妻が「言いたいことがあるのなら、言ってください」と言っても、「いや別にないよ」などといった曖昧な態度であり、しかしそれでいてマイペースを崩さない夫に、妻が「私を馬鹿にしているのか」と苛立つのは当然のことだなのだ。
もちろん、言っても理解されないかも知れないが、しかし、言わなければ勘ぐられ、誤解されるというのも当然のことなのである。
「言えば、ぶつかり合いになって、収拾がつかなくなる」という現実も、多々あろう。だが、それは、言うなれば仕方がないことなのだ。
しっかり、本音で話し合って、それでも妥協点が見出せないのなら、それは別れるしかないし、それが正解なのである。なにも、無理をして一緒にいなければならないというわけではないし、納得のない妥協は必ず「遺恨」を残すことになるなら、それは解決ではなく、問題の先送りにしかならないのだ。
本作の場合「妻が改心して、夫の側の価値観の正しさを認め、そちらに転向する」というかたちになっており、それがタイトルの『お茶漬けの味』(質素素朴こそが素晴らしい)という言葉の意味なのだが、別に、必ずしも「お茶漬けの味」だけが正しいわけではない。
「ベルサイユ宮殿の味」だって、夫婦が共に納得できるのならそれが正しいのであり、「質素と贅沢」即「善と悪」というわけではなく、単なる「価値観の違い」でしかないのだ。
だから、本作の結末は、何も「妻の方が、夫に合わせる」から「正しい結末」だということにはならず、「夫の方が、妻の価値観に(完璧に)合わせる」というものであっても構わないし、「夫婦の価値観の中庸を選ぶ」というものであっても構わない。
しかし本作は、この程度のことすら考慮されていない一方的な「小津美学」の、その問題点を、図らずも露呈するものとなっているのである。
くり返して言うが、これは「フェミニズム」の問題ではなく、「フェアネス(公正さ)」の問題なのだ。
私の「男の美学」からすれば、男は、まず何より「フェア」でなければならない。女性に対して「優しく」ある前に、まず「対等」であることを認め、その上で、主体的に「優しく」するのなら、それは「非凡な美徳」なのだと、そういうことになる。
無論これは、私の「男の美学」であり、私自身、そんな「美学」どおりには生きられないと思うからこそ、結婚もしていないのだが、それは、出来ないことを欲望のままにやるよりは、「出来ないことをやって、他人に(女性に)迷惑をかけるくらいなら、やらない方がマシ」だというのも、私の「美学」なのである。
「いや、相手に多少の無理を強いることができるのも夫婦なればこそであり、お互い様という人間関係の基本だよ」と、そう主張なさる方がいらっしゃるのは重々理解しているし、それが「一面の(現実的な)真理」であるというのも、わかってはいる。
しかしだ、そういう「わかったようなことを言う人」が、お互い様の譲り合いにおいて「絶対に離婚しないのか(いつでも必ず和解できるのか)?」と言えば、無論そうではないというのも現実だ。
つまり現実には、最後は「憎しみあいの泥試合」になることも少なくないわけなのだが、そうなったときに、その人は、事前の「自分の考えの甘さ」を、本当に反省するだろうか?
一一「しないだろう」と、私は思う。反省しないからこそ、「相手が悪い」と言いつのることもできるのである。
しかしまた、うまくいかなければ「離婚すれば良い」というのは、先にも書いたとおりで、私もその選択肢を否定しない。
否定はしないが、ただ夫婦の間に「子供」がいた場合の「子供の悲劇」などに端的に示されるように、いくら双方が納得して離婚したって、完全に元の状態に戻ることはなく、「無かったことにはならない」ということだけは、考えておくべきだろう。
そして、それを考えるからこそ、私は「君子危うきに近寄らず」の「完全主義」を選ぶのだし、それが私の「美学」なのである。
だが、小津安二郎もまた、本作で描かれたような「男性都合の結婚観」をもっていたからこそ、結婚しなかったのではないだろうか。
そしてその意味では、タイプに違いはあれ、自身の理想への「潔癖主義」という点では、私と同じなのかも知れない。
しかしまたそれでも、「私の美学」からすれば、小津の『お茶漬けの味』は、自分の嗜好に「甘すぎる」のである。
(2024年7月15日)
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