栗林輝夫 『荊冠の神学 被差別部落解放 と キリスト教』 : 聖クリバヤシの神学
書評:栗林輝夫『荊冠の神学 被差別部落解放とキリスト教』(新教出版社)
菊版(大判)550ページという大著のわりには、当たり前のことしか書かれておらず、その意味ではまったく中身のない本であった。
本書が、このように膨大なものになってしまったのは、「被差別部落問題」とは直接関係のない、著者が「お勉強」した「キリスト教神学関連知識」をすべて投入したからにすぎず、読者としても「お勉強」にはなるものの、「被差別部落の解放」という「実践(プラクシス)」には、まったく役立たない、「講壇哲学」ならぬ「講壇説教」でしかない。
著者は、本書の冒頭から最後まで何度となく「プラクシスを実現し、現実の役にたつもの(神学)でなければ意味がない」という趣旨の、なかなか強気の正論を吐いているが、私がこのレビューを書いている時点(2019)では無論のこと、本書を賞讃している前レビュアーの時点(kish・2014)でも既に、本書の刊行(1991)以降、キリスト教による「被差別部落の解放」運動が前進したというような話は耳にしないし、それどころか、むしろ「部落解放運動」そのものの低調ぶりこそ、明らかになっている。
つまり、「京都朝鮮学校公園占用抗議事件」(2009)で、一躍有名になった、右派系市民団体「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が、その2年後に「水平社博物館前差別街宣事件」(2011)をひき起した際、部落解放同盟側は、実力による抵抗は無論のこと、その時点では何ら有効な対抗措置をとれず、その後において世間並みに「告訴・裁判」で戦うことしか出来なかったのだが、これは、この時点ですでに「部落解放運動」が、従来の「部落解放運動らしい熱と力」を失っていた証拠であり、本書の刊行(1991)が「被差別部落の解放」に役立たなかった、何よりの証拠なのだ。
無論、私は、本書が「被差別部落の解放」に、現に役に立たなかったという「後知恵」だけで、このような批判しているわけでも、低評価を与えているわけでもない。
そうではなく、本書の内容そのものが、あらかじめ、およそ浮世離れした「キリスト教神学者の講壇説教」を一歩も出ない独り善がりなものであり、それが当たり前に現実に結果しただけだと、そのように評価しているのである。
本書のダメさを、喩え話で説明しよう。
ミステリ作家である井上真偽に『その可能性はすでに考えた』(2015・講談社)という、なかなかユニークなタイトルの長編ミステリがある。
本書は井上のデビュー作で、私は同書を刊行直後に一読しただけなので細かい内容は忘れたが、著者が、
『本作のミステリ的なテーマは『否定』である。事件だけでなく、『いかに仮説を否定するか』の部分でもパズラー的な妙味を出したかった』(Wikipedia)
と語っているように、本作の造り(構造)を大雑把に言えば「提示された謎を解くための仮説が、前座探偵たちによっていくつも提示されるが、それが本命探偵によって次々と否定された後、ついに本命探偵が事件の真相を提示する(完全に謎を解いて、真相を暴く)」という、ロナルド・A. ノックスの『陸橋殺人事件』(1925)以来の「複数探偵による多重推理」パターンである。
ちなみに『その可能性はすでに考えた』の主人公である上苙丞は『人知の及ぶあらゆる可能性を否定し〈奇蹟〉が成立することを証明すると言い放つ。』(Wikipedia)ような、普通の名探偵(の科学的自然主義)とは逆向きの、風変わりな「奇跡願望のある」私立探偵であるし、『陸橋殺人事件』の作者ノックスは、ラテン語聖書『ウルガタ聖書』の改訳をおこない『ノックス聖書』を作った、著名なイギリスのカトリック神学者である(Wikipedia)。つまり、両者は「カトリックがらみ」だ。
さて、話を戻すと、要は本書『荊冠の神学』は、井上真偽の『その可能性はすでに考えた』と、同じ「造り」なのだ。
本書を一読すれば明らかなとおり、著者の栗林輝夫は、従来のキリスト教的立場を次々と「批判」的に検討した上で、自身の「荊冠の神学」がどのように違っており、優秀なものかを語っている。
「被差別民の側に立つ」という著者のスタンスは、明らかにリベラルなものだが、著者が批判するのは「保守的な教会や教会の正統神学」だけではなく、「リベラルな神学」もまた「保守的な神学」以上に批判されている。
つまり、自身の「荊冠の神学」を中央に措いて「右も左も、ぜんぶ不十分である」と批判することにより、自身の「荊冠の神学」だけが「被差別部落の解放」に実際に役に立つであろう、と語るのであるが、前述のとおり、現実には、そうは問屋が卸さなかった。
一一なぜ、著者の想定どおりにいかなかったのだろうか?
それは、栗林輝夫の『荊冠の神学』が、「現実」を対象とするものであって、井上真偽の『その可能性はすでに考えた』やノックスの『陸橋殺人事件』のような、「虚構(フィクション)」ではなかったからである。
前記のとおり「前座探偵の提起する謎解き・推理(仮説)が次々と否定された後に、本命探偵の推理が披露され、それが見事に事件の真相を解き明かすことになる」という造りは、所詮は「フィクションの世界でしか通用しないお約束」でしかない。
最後に提示される「本命探偵の謎解き・推理(仮説)」が「真相(真理)」を言い当てるのは「(物語は終らなければならないという)作劇上の都合」であって、論理的に言えば「本命探偵の(最後の)推理」が、最終的かつ特権的に「正しい」という保証など、どこにも無い。
例えば、著者が「続編」を書いて、「本命探偵の(最後の)推理」と思われていたものを「実は彼も前座探偵のひとりでしかなく、彼の推理も誤った仮説の一つでしかなかった」とすることは、容易に可能なのである。
このように「前座探偵の提起する謎解き・推理(仮説)が次々と否定された後に、本命探偵の推理が披露され、それが見事に事件の真相を解き明かすことになる」という造りは、なるほど「読者を煙に巻く説得技法(演出)」としては有効ではあっても、現実的な有効性を保証する論理形式ではあり得ないのだが、栗林輝夫の『荊冠の神学』は、こうした形式において「フィクションを共有する身内向けの読み物」としての説得力だけは持っていたのである。
言い変えれば、井上真偽の『その可能性はすでに考えた』やノックスの『陸橋殺人事件』において「本命探偵のよる最後の推理こそが真相」だと納得できるのは、「ここで描かれているのはフィクションであり、作者は、頁の残り少なくなった最後の部分で、主人公に真相を語らせる」という「お約束」を、読者が作者と共有しているからであり、同様に、本書『荊冠の神学』において著者の意見が「キリスト教のあるべき立場(真相)」だと、読者の多くに受け取られるのも、読者の方が「キリスト教は、この世界の真理を語るものであり、(実在する)神はいつでも弱者の側に立って下さるものだ」という「フィクション(お約束)を共有」しているからに他ならないのだ。
だから、著者が意図的に「前座探偵」に仕立て上げた「保守神学」や「リベラル神学」も、じっさいには著者が描くほど、薄っぺらでもなければ間抜けでもない。それらの立場に立ってみれば(それらの立場のお約束を共有する者ならば)、本書の著者の言い分は、まさに「独り善がりの誹謗」でしかない、ということになるであろうことは、容易に看取できるのである。
しかし、こう書いたからと言って、私は「保守神学」や「リベラル神学」を擁護しようというのではない。そうではなく、「保守神学」も「リベラル神学」も、そして本書の立場である「荊冠の神学」もまた「キリスト教は、この世界の真理を語るものであり、それによって解決しないものなどない」という無根拠な「お約束としてのフィクション」を、同じクリスチャンの読者と「共有」しているという事実において、その論述はいずれも、現実の場においては「前座探偵の推理」に過ぎないのである。
(その意味では、本書で批判されるリベラル神学の「差別と戦うのに、ことさらにキリスト教を押し出す必要はない。人として差別と戦う人たちの中に、当然キリスト者もいる、というだけの話だ」という立場が、もっとも賢明で謙虚な自己認識であったとは言えるだろう)
「キリスト教を特別扱い(唯一の真理扱い)にしない」という、こうした観点に立てば、本書『荊冠の神学』が「被差別部落の解放」の役に立たず、無力であったという「結果」は、なんら不思議なものではなく、むしろ「理の当然」であったというのが、これで明らかになろう。
つまり、私は「後づけの理屈(結果論)」で、本書や著者を批判したのではない。本書の中身は、その「敗北」を呼び寄せる必然性を、あらかじめ胚胎していたのであり、それが「信仰的お約束によって曇った、読者に目」には読み取れなかった、というだけの話だったのだ。
さて、その上で、本書の「積極的な難点」を示しておこう。
(1)まず、根本的な難点は、前述のとおり「キリスト教が、歴史的事実として、現に差別意識を生むシステムだという根本的反省を欠いたまま、知的エリートの一種であるキリスト教神学者が、無自覚にも、その「キリスト教神学的(つまり護教的)お勉強」の成果である「キリスト教神学はいかにあるべきか」を滔々と講義した、自己満足の書、という点にある。
著者自身も先回り的に批判しているように、キリスト教はその二千年の歴史のなかで、「異端審問(異端焚殺)」や「十字軍」「植民地支配の尖兵」といった数々の「血みどろの歴史」を刻んできた。
もちろん、そのことについては一応の「反省」がなされてはいるものの、「反省したからもう間違わない」ということでは当然あり得ないし、むしろ真の反省とは「なぜキリスト教は間違うのか=そもそもキリスト教自体が間違いなのではないか(願望充足的虚構に過ぎないのではあるまいか)」であるべきなのに、そこだけは避けて、対処療法的修正をつぎはぎ的に加えるだけの「延命措置」に明け暮れたというのが「キリスト教徒による反省の内実」ではなかったか。
どんなに「悲惨な誤ちの歴史」を繰り返そうと、膨大な犠牲者を出そうと、キリスト教徒であり、その神学者たちは「それでも、我々の正しき神は存在する。ただ、人間の神理解が誤っていただけなのだ」という理屈で本質的反省を拒絶するだけではなく、あろうことか「(非キリスト教徒とは違って)自分たちには、絶対の正義である神がついて下さっている」という無根拠な「権威主義」を、自信満々に振りかざしさえする。存在の証明が出来ないものを「自分が信じている」というだけで、さも自分が「世界の真理」の側に立って、「迷妄に生きる非キリスト教徒」を導く(司牧する=民を養い治める)ことができるなどと勘違いし、その無自覚の中で、知らずに思い上がっている。
そして、そうした思い上がりが、本書の「無駄な分厚さ」として現れているのだ。
(2)なぜ、こんなに分厚くなったかと言えば、それはおそらく、著者が「組織神学」を専攻した人らしく、自分の最初の著書に「組織神学書らしい体裁=体系的な体裁」を与えたかったからであろう。一言でいえば「大著権威主義」である。
じっさい、本書から「キリスト教神学」としての「身内向け議論」を取り去れば、つまり肝心の「被差別部落の解放を、いかに成すべきか」という議論だけに絞り込めば、本書は三分の一以下の厚さに収まったはずだ。
「現に役に立たない議論に意味はない」と言いながらも、著者が「神学的アプローチ」にこだわるのは、前述のとおり、著者の立場が「差別に抗する人間」である前に「キリスト者」だからだ。
「キリスト者」には「非キリスト者である、他の人間」よりも「(特別な)知恵と力がある」と信じているからこそ、リベラルな神学者のように「キリスト教を語る前に、人間として差別に抗する」という「人間的な立場」は採らず、「まずキリスト者として」ということになる。だからこそ「神学的アプローチ」が最も根本的であるということになるのだが、端的に言ってこれは「妄信者のマスターベーション(自慰行為)」にすぎない。そんな自己認識に、具体的で客観的な根拠など無いからである。
つまり、本書の大半は「身内向けの衒学」にすぎない、と断じていい。
本当に差別に苦しんでいる非キリスト教信者が、本書を読めば「お気持ちはありがたいですが、どうも、この本で語られているのは、そちらさまのご都合でしかなく、そうした議論が延々と続いていて、正直なところウンザリさせられます」ということにしかならないであろう。
著者は、執拗に「キリスト教会が被差別部落にかかわらなかったこと」を批判するが、しかしそれよりも「被差別部落民の多くが、キリスト教にかかわらなかった(多くを期待しなかった)」という事実の重さに対する無自覚・独り善がりの方が問題なのだ。
著者の栗林輝夫は、二言目には「差別の現場」の重要性を語るが、自身の身振りはどこまで行っても「書斎の理論家」であり「講壇説教者」でしかなく、「現場に踏み入って、自分の手を使う」という雰囲気は微塵もない。
じっさい、著者のように「本を読んでいる時間がふんだんにある」のは、(私自身と同様に)「現場で働いていない」からに他ならない。実際に現場に出ていって、被差別者の現実と戦っているクリスチャンは、著者のように膨大な著書を読むことは、物理的に不可能であろう。
事実、本書『荊冠の神学』を端から端まで読んでも、著者が「被差別部落」の現場に足をはこんで何かをしたという記述はひとつもない。著者の語る「被差別部落の問題」はすべて「書物・文献」から得られた「書斎の知識」でしかない。
もちろん『その可能性はすでに考えた』という「予防線」がお得意の著者は、「あとがき」のなかで、自身が体験したささやかな「差別」を紹介して、さも自身の「荊冠の神学」が「現実と体験に立脚したもの」であるかのように語っているが、この程度の差別なら、誰だって多かれ少なかれ体験しているし、そうした被差別体験をしている人自身が、同時に「差別者=差別をする側」であることも、なんら珍しいことではないのだ。
著者は「あとがき」で、黒人神学者のJ.H.コーンの、
という言葉を引用し、それを受けたかたちで、自身のうけた「差別」体験を語っているのだが、これはコーンの意図を悪用した「自己賛美」にしかなっていない。
というのも、コーンがこのように書いたのは、神学者が「差別問題」に特段の興味を持つ背景には、著者自身があまり公にはしたくない「被差別的出自や私的な事情」あるいは逆に「差別をする側としての経験や、その負い目」といった事実が秘められている場合が、ままあるからではないか。つまり自分に「不都合な部分」は伏せておいて、一般論として「上」から「差別は間違っている」という正論を語っても、そこには「魂がこもらない=口先だけのものにしかならない」ということなのだ。
ところが、本書『荊冠の神学』の著者が語る「個人的な事情」とは「私も貧乏人の多い地域で、差別を見ながら育ちました」とか「外国人である妻が、日本で差別をうける体験をしました」「私自身、海外留学で差別を受けました」という「被害体験」だけであり、コーンが要求した、『正直になって』しか語れない「不都合な個人的事情」はいっさい語ろうとしない。
本書の著者の「レトリック」とは、事ほど左様に「自己中心的かつ自己愛的」なものでしかない。そこで批判されるのは、いつでも「自分以外の、あいつやこいつ」であって、自分自身が検討批評の対象になることは皆無なのだ。
だからこそ、本書で語られるのは、結局のところ「私が最もラディカルであり、現実と神学のあるべき姿をわかっている(ので、いちばん賢い)」という、キリスト教神学界内におけるヘゲモニー的欲望の吐露だけであり、裏をかえせば、自分が「解放の神学」の余波の残る、本書刊行当時の「流行」に乗っているに過ぎない、大勢いた「リベラル神学者の一人」でしかない、という現実を、「浩瀚な書物」という物量作戦でもって排撃しただけなのだ。
「我々は、自己の信仰や神学に対しても、批判的であるべきだ」と語ることは、誰にでも出来る。しかし、そのように「語って見せること」と「実際に、自己の信仰や神学に批判的である」こととは、まったく別問題であり、かつ前者はしばしば、後者でしかありえない自身の現実の予防線やアリバイとして語られがちなのだが、その実例がまさに本書なのである。
プラクシス(実践)を論じてプラクシスをしない、「参加を呼びかけるだけ(掛け声だけ)」のイデオローグでしかない、知的エリートの無自覚。
しかし、それだけなら、まだ「頭が悪い(無自覚)」で済ませることも出来ようが、本書の著者のそれは、そうしたものに止まるものかどうか、かなり疑わしい。と言うのも、前述のとおり「あとがき」で示された著者の「議論のすり替えによる自己賛美」は、意識的なものである蓋然性が否定できない、テクニカルなものだからであり、さらに言えば、著者の「その後の経歴」が、著者の「被差別部落の解放」に対する「本気度」を疑わせるものでしかないからだ。
最近読んだ、佐藤優・深井智朗の『近代神学の誕生 シュライアマハー『宗教について』を読む』(2019)のなかで、佐藤が、日本の神学界の現状について、こんな見取り図を示している。
で、本書の著者である栗林輝夫の経歴は、
となり、その生涯の著書はというと、
ということになるのだが、以上が何を意味するかが、お分かりだろうか?
要は、本書の著者である栗林輝夫は、『関西学院大学教授』として「実践を重視する関学神学部の気風」を作り上げた当人である蓋然性が極めて高いのだが、しかし、その著作を見ると「被差別部落の解放」について主題的に語ったのは、最初の著作である本書だけなのだ。
つまり、栗林は、関学神学部において「プラクシス(実践)」の重要性を学生に説いて、多くの学生を「被差別部落問題の現場」へ送り込みはしたかもしれないが、自身がその手と脚で「被差別部落問題の現場」で活動したという蓋然性は極めて低い。なぜなら、本書では「本書は、キリスト教界が、被差別部落問題に積極的にかかわる切っ掛けを理論的に提供するものでしかなく、今後さらに被差別部落問題に対するプラクシスと、部落解放運動から学ぶことで荊冠の神学の深化がなされなければならない」という趣旨のことを語っておきながら、実際には当人がそれを「実践」した形跡がないからである。
もちろん「被差別部落問題の神学」としての「荊冠の神学」の提唱者であり、「その道のエキスパート」として多少の論文を書いたり、講演をしたり、授業で語ったりはしただろうが、その程度のことは、本書で語られ、栗林自身の強調した「プラクシス」ではあり得ない。
そんなことでお茶を濁して済むようなら、つまり「口先だけ」でいいのであれば、本書で批判された「左右の神学者」たちだって容易に請け負えたであろうからだ。だが、それでは済まされないからこそ、栗林は「右も左も、あいつもこいつも、不十分だ」と批判したのではなかったか。
例えば、生前の栗林輝夫は、在特会などによるヘイトデモの現場に出て、差別者たちに立ち向かわないまでも、せめて「彼らの誤ちを許し給え」と祈るくらいのことはしたのか?
それとも、キリスト教界の部落差別問題専門家として、解放会館などに呼ばれて、講演をして帰ってくるような「著名な神学者先生」でしかなかったのか?
「被差別部落の問題」という、血の流れる生身の問題について、キリスト教界内の都合を優先し「神学的に語る」ことを優先したのだとしたら、それは「虐げられた者を言葉を収奪し、それを加工することで食い物にする商売の一種」でしかないし、所詮それは「教会内政治的な神学」でしかないのではないか。
たとえ、栗林の学生たちが、現実に「被差別部落の現場」に赴いて、身を粉にして働き、「被差別部落の人々」のために貢献したとしても、それが本書『荊冠の神学』の著者の「手柄」になるだろうか。
現場に出て、忙しく立ち働いている学生たちには、そのぶん本を読む時間も無ければ、ましてや「体験手記」ではない「体系的な神学書」を書いている暇など無いはずだが、そこは栗林が代表していれば、それでいいということなのか?
私には、栗林輝夫が本書でやってみせたことは、「聖都を蹂躙する異教徒を排撃せよ。さすれば汝らには、すべての罪の赦しと天国への保証が与えられるであろう。異教徒を殺せ!」と、無知な人々を煽って「十字軍」を組織し、しかし自身は戦場へは行かなかった、口だけは達者な、クレルヴォーのベルナルドゥス(聖ベルナール)の同類にしか見えないのである。
初出:2019年4月4日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
・
○ ○ ○
・
・