京極夏彦 『今昔百鬼拾遺 鬼』 : 虚ろな主体に 〈鬼〉が憑く
書評:京極夏彦『今昔百鬼拾遺 鬼』(講談社タイガ)
ひさしぶりにこのシリーズを読んだが、とても楽しめた。
もちろん、ミステリとしては弱いとか、ペダントリーの無いのが物足りないとかいった「注文」も付けようと思えば付けられるけれど、そうしたものとして読まなくてもいい面白い小説として、私は本作を高く評価したい。
何が気に入ったのかと言えば、最後の美由紀の演説である。あれはじつに見事な「お祓い」であり「憑物落とし」であった。
本作は「鬼」とテーマにした作品である。
そして「鬼」とは「虚ろ(虚無)」である。本作でも語られているように、それは「鬼は存在しない」というような意味ではなく、「鬼とは虚ろのことだ」という意味だ。そして「鬼」は「虚ろ」に入り込む。「虚ろ」に涌く。
麻耶雄嵩の作品タイトルにもあったが、わかりやすい言葉で言えば、「小人閑居して不善を為す」みたいなものだ。つまり「中身が空っぽな人が、為すべきこともなくボーッと生活してると、ろくなことを考えない」といったようなことであろう。
本作における犯人も、特別な人間ではない。特別に中身があるわけでもないので、そこに「鬼」が入った。
実際のところ、こうしたことは、世の中によくあることで、大した動機もないのに「つい、やってしまった」「カッとなって、やってしまった」とか、あるいは「教義もろくに知らない妄信者の確信(したつもりの)犯罪」といったのが、それだ。その時、その人は「考えていない」し「空っぽ」なのである。
もちろん、本作の犯人の場合は、そこまで面白みに欠ける存在ではないものの、やはり「鬼」に憑かれ「鬼」になってしまった理由に、納得できるほどの必然性はない。ただ、その人は「そんな(程度の)人だった」のだとしか言いようがないし、現実の世の中においても、「鬼」に憑かれる人というものは、おおむねその程度のことで「鬼」になってしまうのだ。例えば「私自身、なんどもあおり運転をされたので、そういう輩が許せなかった」とかいった具合である。じつにくだらない。じつにくだらないのだが、「鬼」はそうした「空っぽな人間」に憑くのである。
「鬼」に憑かれた「人間」の実例を、もうひとつ挙げてみよう。
韓国の裁判所が、アジア・太平洋戦争中に日本で強制労働させられた韓国人徴用工への、関係日本企業に対する「個人賠償請求」を認めて、日本企業の賠償責任を認めた、といったニュースがあった。
この問題については、日韓の政府間で取り交わされた「日韓請求権協定」でなされたのは、韓国政府の被害自国民についての「外交保護権の放棄」であって、韓国人被害者本人の「個人請求権」の放棄や破棄はなされていない(なされ得ない)ので、元徴用工の「個人請求」は正当なものであり、韓国の裁判所の判断も妥当なものである、といった、押さえて然るべき「法的議論」もあるのだが、しかし、この問題は、「法的問題」つまり「法的に、賠償責任が有るか無いか」の問題ではなく、「加害者が被害者に謝罪すべきか否か(法的に免責されておれば、謝罪しなくてもいいのか)」という「倫理問題」であり、こちらが「事の本質」なのだ。
しかし、「人間性」を失った「虚ろな人間」の心には、非情な「鬼」が憑くのである。
京極夏彦は、シャイな人なので、彼のこうしたナイーブさを誉めれば、京極堂のように渋面を作るのだろうが、彼も昔ほど、自分を韜晦することが無くなってきたのではないだろうか。
そして、私は彼のこういうところを、とても好ましく感じるし、だからこそ彼は、「言葉」を操りはしても、「虚ろな言葉」に憑かれることがないのであろうと考える(例えば、「オリンピック」を「立派な運動会」にすぎないと喝破したのは、じつに痛快だ)。
したがって、本作から読者が学ぶべきは、こうした点である。だが、そんな読者はめったにいない。
初出:2020年8月12日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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