瀬野反人 『ヘテロゲニア リンギスティコ ~ 異種族言語学入門 ~』 : 希望と現実の〈狭間〉を行く物語
書評:瀬野反人『ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~』(角川書店)
(※ 本稿は、既刊3巻を読んだ段階で書かれたものです)
本作の語り手は、新人言語学者である青年ハカバ。そして彼の魔界フィールドワークの案内人となり、旅の相棒をつとめるのが、ワーウルフ(狼人間族)と人間とのハーフの少女ススキだ。
ススキは、それこそ子犬のように愛らしく、その無邪気な魅力に魅せられた読者も少なくないのだが、しかし本作は決して「キャラ」で読ませる作品ではなく、きわめて知的で重いテーマ性を扱った、異色の傑作マンガである。
ジャンル分けをすれば、確かに「コメディ」なのだが、この作品の中で「笑い」を誘うのは「文化的・言語学的隔絶に由来する、コミュニュケーションのズレ」によるものだ。
例えば、同じ人類(人間)であっても、冷たいという感覚を「アツイ」という言葉で表現する種族がいるかもしれず、そんな彼らが「アツイ! アツイ!」と言いながらカキ氷を食べている様子を見ると、私たち日本人は、思わず笑ってしまうだろう。それが決して笑うようなことではなくても、「ズレ」の感覚が笑いを誘うのだ。
当然のことながら、本作における「異種族」間の「コミュニケーション形式の違いにおけるズレ」は、それよりも、はるかに大きい。単に「言語」が違うというだけではなく、そもそも「種族」によっては「言語」ではないものを「コミュニケーション・ツール」としていたりするのだから、そうした途方もない「ズレ」を補正して、人間の言語学者であるハカバが、相手の伝えんとするところを理解するのは、並大抵のことではないのである。
無論、まったく意思疎通ができないのでは、作者の意図する物語にはならないので、本作に登場する「異種族」には、ある程度「人間」と共通する部分が与えられている。
つまり本作には、例外的に人間とはまったく異なる形態の「種族」も登場はするが、「ファンタジーの魔界」を下敷きにすることで、多くの種族が基本的に「半人半獣」として描かれているのは、偶然ではない。これは、「人類の中の異人種」ほどの「共通性」は無くても、完全な「異生物」でもなく、半分「人間」である「種族」として描かれているということだ。
また、前述のとおり例外的に『人間とはまったく異なる形態の「種族」』として描かれている、完全な鳥類(タカ)型生物パーピー、頭部がタカの四足獣の「グリフォン」、完全にタコ型の種族「クラーケン」、あるいはファンタジー世界ではおなじみの「スライム」なども、形態こそ「非ヒューマノイド」ではあっても、知能や基本的な思考形式は「人間」に近いもので、その言語さえ解読できれば、意思疎通が可能な相手として描かれている。
つまり、この作品で描かれているのは、実際のところ「異生物とのコミュニケーション」ではなく、「異人種コミュニケーションの寓話」だと考えるべきであろう。「黒人・白人・褐色人・赤色人・黄色人」間や「異文化異言語人種」間のコミュニケーションの困難さを、「魔界の異種族」に投影した物語と見て間違いない。
この物語の特徴としては、基本的に「悪意ある異種族」というのが登場しない点だろう。コミュケーション的な齟齬によって、多少のトラブルはあっても、基本的にはみんな「人間味のある異種族」として描かれている。
これが、「ファンタジー」の世界を舞台としたものではなく、「SF」的な「異世界」を舞台にした物語だったら、到底こうはうまくいかないはずだ。姿かたちや言語体系や文化様式が違うだけではなく、そもそも「思考様式」が根本的に違っていて、本質的に相互理解が不可能だとか、「捕食者と被食者」の関係とならざるを得ない、シビアな関係も考慮されずには済まないからだ。だが、本作が描くのは、あくまでも「同等の異種族が住むファンタジー世界における、異種族コミュニケーション」なのである。
このことが意味しているのは、作者が興味を持っているのは、本質的には「人間間における異文化コミュニュケーション」であって、SF的な「異生物間コミュニケーション」ではない、ということだ。
作者が描きたかったのは、「ファンタジー世界の異種族コミュニケーション」のかたちを借りた「人間における異文化コミュニュケーション」だということである。
さて、ここまでの説明を読んで、「わかりきったことをくどくどと」と感じた方も多いだろう。だが、本作が「人間における異文化コミュニュケーション」の「寓話」であるという点は、はっきりさせておかなければならない。なぜなら、そこを理解してないと、この物語が「登場する異種族は、いい奴らばかりで、異種族間の宿命的な断絶が描かれていない、ご都合主義的なヌルい作品」だと誤解されてしまう怖れがあるからだ。
つまりこの作品は、あくまでも「寓意的なファンタジー」であって「SF的なリアリズム作品」ではない、という「本質」を押さえてこそ、この作品の「傑作」性が正しく理解されるのである。
したがって、ぶっちゃけて言えば、作者が本作に込めたのは「肌の色や、言語や、文化がどんなに違っても、人間はお互いを理解しあえるはずだし、その努力をしなければならない」という、きわめて良識的なヒューマニズムに基づくメッセージなのであろう。だが、それをそのままベタに描くと「説教くさいお話」だと敬遠されてしまうので、舞台を「ファンタジー世界の魔界」とし、登場人物たちを「異界の異種族」として描いて、多くの人が楽しめる形式に落とし込んだのである。
しかし、それでも、やはり「人間における異文化コミュニュケーション」というのは、重い問題だ。
実際、人間のこれまでの歴史を見れば、相互理解と同じくらいかそれ以上に、差別や偏見や虐殺が行われてきたというのは否定できない事実だ。「同じ人間だから」といって「必ず分かり合える」というのは、やはり「理想」でしかないと考える人も少なくないだろうし、その意味で、この物語が「人間における異文化コミュニュケーション」の「寓話」だとしても、「それでも甘い」と考える人はいるだろう。
だから、私は、この物語を、単に『「人間における異文化コミュニュケーション」の「寓話」』ではなく、〈祈りを込めた「人間における異文化コミュニュケーション」の「寓話」物語〉だと理解したい。
無論、「人間世界」においても、こううまくはいかないことくらい、作者だってわかっている。だからこそ、第3巻には『不安だと、最悪な事か、こうあってほしい事どちらかを信じやすくなる』という、ハカバの恩師である「教授」の言葉が記されているのだ。
しかし、そんな現実の困難さを承知の上で、それでも「人間として、相互理解の努力を諦めないでほしい」という切実な「祈り」が、この作品には込められている、と言えるのではないだろうか。
そして、そんな「ファンタジー」世界をギリギリで支えているのは、たぶん、ワーウルフ(狼人間族)と人間とのハーフである、ススキである。
多くの読者は、絵面を見ただけでも「ワーウルフと人間との間で、子供を作ることなんて可能なのか?」という疑問を持つだろう。だが、作者は、この疑問に対する説明をあえてしない。なぜなら、それは、ススキの存在が「異文化コミュニケーション」の「希望」だからである。
ススキが、ハカバの「異種族コミュニケーション研究」の旅の「案内人」になるのは、決して偶然ではないし、彼女は単なる「マスコット・キャラ」ではない。
ススキは、この「成立困難な物語世界」を根底で支える、「希望」という名の「導きの天使」なのである。
私はこの先の、この「地味で心優しい冒険物語」に期待したい。いや、この先にあるものにこそ、期待したいのである。
初出:2021年9月11日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
※ 上の、伴名練編『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』所収の短編「花のなかであたしを殺して」は、『ヘテロゲニア リンギスティコ』と重なるところの多い「異文化異星人との交流と葛藤」を描いています。是非ご一読ください。(2011.09.12)
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