大島新監督 『国葬の日』 : その日も「平常運行の日本」
「国葬の日」というのは、もちろん故・安倍晋三元首相の「国葬」、いや、そう言っては、国民の税金をつかいにくいので、後から「国葬儀」と言い換えた、あの12億円余りかかった「大イベントの日」のことである。
これから私が書くのも、外国の首脳の出席がほとんどなかった、あの12億円あまりをかけたイベントについての映画の話なのだが、少しは、あのイベントを思い出していただけたたろうか?
当然のことながら、いわゆる「安倍晋三の葬儀(葬式)」は、彼が殺された直後に、生まれ故郷のほうで行われているはずだが、そっちは大して話題にもならないし、そんなのが本当にあったのかどうか、すでに記憶の曖昧な人も多いのではないだろうか。何を隠そう、かく言う私自身がそうだ。
さすがに、あの安倍晋三であっても、家族親族友人知人各位などのために開催される、当たり前の葬式もやったはずなのだが、そんなのは当たり前すぎて、当日テレビ報道されたはずであるかもかかわらず、関係者以外は、ほとんど誰も覚えていない。
言い換えれば、「国葬」が問題となるのは、それが「追悼目的の儀式」であるよりも、「政治的宣伝(プロパガンダ)」の性格が強いからであろう。
故人の死を悼み、弔意を表すための「宗教的儀式」こそが、一般に「葬式=葬儀」と呼ばれるもので、それは、遺された関係者らの「個人の感情」を慰撫するために行われる「イベント」である。
もちろん、仕事関係の葬儀列席者の多くは、特別に深く故人を死を悼んでいるわけでもなければ、弔意というほどの感情や意思を持っているわけではなかったのかも知れない。平たく言えば、「浮世の義理」と「世間体(体裁)」と「慣習的形式の充足」といったことでしかない場合が多いのだろう。
だが、いずれにしろそれらは「個人的な問題」であり、その意味で一般的な「葬式=葬儀」というのは、関係者以外、つまりその他の大多数の人には、何の関係もない「私的なイベント」にすぎない。
例えば、街を歩いていて、たまたま葬式を見かけたからといって「家族は悲しんでいるだろう。可哀想だな。およばずながら私も弔意を示しておこう」などと考えて、縁もゆかりもない人の葬儀に立ち寄る人など、まあいないだろう。いたら、相当の変人である。
その人の「気持ち」は本物であり、会社関係の列席者などのように「このクソ暑い中に、喪服を着なけりゃならない葬儀なんて、まったくウンザリだ」なんていうのが本音である人なんかより、よほど「弔意あるもの」なのだとしても、やはり、一般的な「葬式」が、基本「身内・関係者」のものである以上、縁もゆかりもない「赤の他人」の列席は、おかしなこと、的外れなものなのだと、一般には考えられるのである。
それに比べると「国葬」は、もともと「政治的宣伝(プロパガンダ)」の性格が強いものだから、基本、できるだけ多くの人に参加してほしいという狙いにおいて、開催されるイベントであろう。
もちろん、会場の収容能力や、開催時間の制限など、物理的な限界はあるものの、日本国民はもとより、諸外国の人たちにも「弔意を示してほしい」と考えて行われるものであるというのは間違いないはずだ。
当然、安倍晋三が殺されて、「ザマアミロ」と思い、清々した私のような人間には参加してほしくないだろうが、それは「見かけ上の弔意」すら示さないと予想されるばかりか、その反対をするかもしれないと警戒するからである。
つまり、心の中でどう思っていようと、形式的に「弔意を示しているようなポーズ」さえ採ってくれるのなら、それも「頭数のうち」ということで、拒絶はしないはずだ。
実際、安倍晋三の「国葬儀」くらいの規模になると、そんなことを考えて、一般弔問者を装って、わざわざ「花言葉は、自業自得」といった花を手向けてきたような、掌を合わせて「エコエコアザラク」とか「エロイムエッサイム」などという呪文を唱えてきた、愉快かつ奇特の人も、何人かはいたのではないだろうか。
だが、それだって、「国葬儀」に使われた税金を払っている国民には「当然の権利」でしかなかろう。
国民にもいろいろな意見や立場があり、それを承知の上で、あえて税金による一方的な開催だったのだから、主催者である国には、それらの多様な意見を受け止める義務があるはずで、「心からの弔意」だとか「追悼の意」が無ければ参加が許されない(つまり、思想信条による差別したうえでの)、支持者限定の「政治イベント」でなど、あってはならないはずだ。
そもそもそんなもんなら、他人の懐など当てにせず、やりたい者が金を出しあって、勝手にやれば良いのである。
もちろん、「葬礼の場」における、ごく常識的な意味での「礼儀」の問題はあろう。
だが、日本人らしく「事なかれ主義」的に「礼儀」論ばかりを重んじて、権利としての言論(意見表明)を抑圧制限するというなら、それが正しいことではないのは、少なくとも「外」から見るならば明らかなはずだ。
「国葬」とは、「国家権力が、好きに行う葬儀」ではなく、少なくとも民主国家においては「国民の意思によって行われる追悼儀式」でなければならない。総意とはいわずとも、それらの意志を反映するための手続きが必要だろう。当然、「国葬」においても「言論の自由」「表現の自由」は、妨げられてはならないということだ。
もしも、そうした「国民の権利」を守れないというのであれば、税金など使わない「私秘的な葬儀」をやればいいのだ。「関係者以外、立ち入り禁止」の葬儀なら、それに対して権利を有しない者が、許可なく介入するのは、立派な犯罪となるからである。
一一だが、以上のようなことを、大真面目に考える「日本人」というのは、たぶん100人もいないはずである。
「安倍晋三が大嫌い」で「殺されて清々した」と思ってる人なら、公言はしないまでも1万人やそこらは楽にいるだろう。しかし、そんな彼らでも、私のような「日本における非常識」は口にしない。
彼らだって日本人だからであり、「日本の常識」に縛られているからだ。だからこそ、日本を、先進諸外国並みに開かれたものにすることも困難なのだ。
例えば、リベラルはもとより、左翼と呼ばれる人だって、安倍晋三が殺されて「良かった」とか「清々した」などと公言したりはしない。
もちろん、そう思っていないからではなく、そうした「本音の公言」を、政治的な攻撃材料にされる恐れが高いからである。「やっぱり左翼は、テロを容認している」などと、頭の悪いことを、頭の悪いその他の人に向けて喧伝されると面倒だからだ。
実際のところ、安倍晋三が殺されて「良かった」とか「清々した」と、心の底から思っていたとしても、それは「テロを容認する」というのと、同じことではない。
「死刑」を認める人も、誰彼なしに「死刑にしても良い」とは思っていない。「死刑」にするには「それ相応の理由や根拠が必要だ」と言うはずだし、言い換えれば、それさえあれば「死刑も容認できる」という意味だ。
忌憚なく言ってしまえば、「死刑」とは「国家によるテロ」なのだから、「テロ」というのは、日本では公式に「認められている」のである。
「いや、認められてなんかいない」と思う人も多いだろうが、「死刑」というのは、被害者感情としては「報復としての暴力的処罰」そのものなんだし、国家権力としても「法律を守らなければ、こうなるぞ」という「見せしめ」であり、「暴力によって、恐怖心を植えつけることを目的にした行為」なのである。だから「死刑」は「法制化されたテロリズム」なのだ。
しかし、「法制化」されてさえいれば、何でも良いというわけではないというのは、ナチスドイツの「ユダヤ人絶滅政策」などを見ても明らかだろう。
つまり、「法制化」されていようといまいと、要は「テロリズム」を認めるか認めないかの問題であり、「場合によっては認める」というのが「死刑制度」であるように、「テロリズム一般は認めないが、安倍晋三みたいなのの場合は、例外的にそれを認める」というのも、良かれ悪しかれ、似たようなことなのだ。要は「戦争では殺人が合法化される」というのと、同じことなのである。
ちなみに私の場合は、安倍晋三に対するテロリズムも、認めてはいない。ただし、「ざまあみろ」とか「清々した」という「感情」は、否定できない事実だと言ってるだけなのである。
いくら嫌いなやつでも、殺してはいけない。なぜなら、「それだけ」では済まないからである。
このくらい突き抜けたことを書いておけば、喜んで私をキチガイ呼ばわりする人もいるだろうが、いくらかの人は「日本人の常識」を、多少は疑うこともできるのではないだろうか。
また、このくらいの徹底性がないと、本作『国葬の日』を観ても、「やっぱりなあ…」「日本人はなあ…」というような感想しか持てないのではないだろうか。
「いや、私たちは、こうした現実から始めなければならないのだ」と、一応は「もっともらしい正論」を口にしたところで、やっぱりこれまでどおりのことしか出来ないのではないか。いや、それしか出来ないはずである。
だから私は、その「常識の外部」への道を開くために、少々過激なことを言ってみたわけなのだが、しかし所詮、これとても「言葉」でしかないのだから「これくらいのことで臆するな。こんなことで臆していちゃあ、何も変えられないぜ」と言いたいだけなのである。
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さて、大島新監督による『国葬の日』は、昨年(2022年)7月8日に、凶弾によって倒れた、安倍晋三元首相を追悼するために同年9月27日に開催された、「国葬儀」の一日を追ったドキュメンタリー映画である。
この映画の面白いところは、監督が「監督の視点」から「国葬儀」を「国葬」と位置づけ、それを批判的に語ったものには、なっていない点だ。
本作が「国葬儀の日」ではなく『国葬の日』なのは、国民にとっては、あの儀式は、実質的に「国葬」であって、政権の「言い訳」のために、後から案出された「似て非なる名称(造語)」としての「国葬儀」などではなかったからだろう。
安倍晋三の死を、悼む人たちにとっても、「ざまあみろ、〝天罰〟だ」と故・石原慎太郎元東京都知事みたいなことを思った人たちも、共に、この日に行われたイベントを、実質的には「国葬」だと考えた。
「国葬」だから価値があると考えたか、「国葬」だから許し難いと考えたかは、別にして、その実質において「国葬」だと考えていたからこそ、この映画は、『国葬儀の日』などという的外れで間抜けなタイトルにはできず、素直に『国葬の日』としたのであろう。そうせずにはいられなかったのである。
本作が『監督が「監督の視点」から「国葬儀」を「国葬」と位置づけ、それを批判的に語ったものには、なっていない』というのは、どういうことかというと、要は、本作の狙いは「国葬」をめぐる、様々な立場の人たちを、そのまま並べて見せるところにあって、「国葬批判」などというありきたりなものではない、という点にある。
本来、国をあげてのイベントであるはずの「国葬」について、各種ワールドカップの100分の1ほども気にとめるない国民が大多数を占める、平均的な「日本人とは何なのか?」という問題を、本作は提起している。
つまり本作は、主張する作品ではなく、問題提起の作品なのだ。
監督とは「反対の立場」、平たく言えば「安倍晋三崇拝者」や「国葬支持者」の問題点を描いて、これを批判する、というようなものでもなければ、当たり前のように「対立する二者」としての「左右両極」を描くだけではなく、当然のことながら、そうした両極よりも圧倒的に多い、その幅広い「中間層」をも手厚く紹介したのが、本作である。
もう「イデオロギー」どころか「思想信条」と呼ぶにも値しないような、ふわふわした日常感情だけで、「国葬」についても、「どっちかと言えば賛成」とか「どっちかと言えば反対」とか言っているような分厚い層や、それに止まらない「今日が国葬の日なんですか? 知りませんでした。興味ないですからね」みたいな人まで含めて、この映画は、「国葬」当日の全国10ヶ所での取材撮影により、様々な人たちにとっての、大きかったり小さかったりする「国葬」というもの、それに対する態度、非態度を描き出している。
そのことによって「イデオロギー的対立」の世界では、視野に入ってこなかった「日本人の平均的な実態」が浮き彫りにされているのである。
例えば、当日の国葬についてインタビューされて、ある人は「今日が国葬だったのですか。全然知りませんでした。というかそういうことには興味ないし、私らには関係ありませんからね。まあ、安倍さんですか、長い間、大統領をやった人なんですから、国で葬儀くらいやっても良いんじゃないですか」という趣旨の、じつに正直かつ、イデオロギーのかけらも感じさせないコメントをしていた。一一あの安倍晋三を、大真面目に「大統領」と呼んでしまうような人は、かりに言い間違いであったとしても、滅多にお目にかかれるわけではないし、まして「ドキュメンタリー映画」の一コマとして残されることもなかっただろう。
だが、右であれ左であれ、こうした「意識低い系」の非政治的な一般国民を、馬鹿にして済む問題ではない、というのは明らかだろう。
たしかに、こんな楽しい言い間違いをしてくれる人は滅多にいないのだけれど、この人と同じ程度にしか政治に関心を持っていない人の方が、むしろ多いと言うか、それが日本人の大半であるはずだからだ。
別の例を挙げよう。
国葬の当日、安倍晋三が殺害された奈良の事件現場に、黒っぽい服装でやってきて、わざわざ献花して手を合わせていた五十年配の女性は、「安倍さんは、あなたにとっては、どういう存在だったのですか?」というようことをインタビューされて、しどろもどろになりながら、それでも取材拒否はせず「私、政治のことはよくわからないし、正直あまり興味もないんです。だから安倍さんがどんな仕事をなさったのかも詳しくは知らないんですが、ただ、何となく親しみを感じていたというか、それだけではないんですけど、そんな思いがあって、掌を合わせたいなと思って来ました」みたいなことを話していたが、これも「平均的な日本人」の姿でもあれば「安倍晋三支持者の大多数の姿」なのではないだろうか。
事実、明確な安倍晋三支持者と思しき男性は「国葬」について訊かれて「当然のことだと思います。あれだけの仕事をなさった方なのだから」と答え、具体的にはどんな仕事をしたのかと訊き返されて「たとえば、外交とかですね。安倍さんは、国際社会における日本の地位を、確実に高めた」というようなことを、ハキハキと答えていた。
これは、安倍支持者がよく口にする、紋切り型の「外交の安倍」論なのだが、しかし、事実関係として、本当にそうなのだろうか?
たしかに安倍には、私が嫌う、人を小馬鹿にしたようなヘラヘラした調子の良さと裏腹に、いかにもソフトな人当たりの良さがあって、政治外交の場においても、それが「毒にも薬にもならない」政治家としての存在感の希薄さとして、外国の首脳たちからは「珍しくも、安心して雑談の交わせる相手」だと、そう思わせるものがあっただろう。要は、ぜんぜん怖くない(警戒するに値しない)相手だった、ということだ。
けれども、これを「外交的実績」だと考えるのは、いかにも愚かなことであろう。
こんな首相では、国益が鋭く対立する場での「交渉」については、ほとんど無能だったというのも、明白なことではないか。
例えば「北朝鮮による拉致被害者問題」や「北方領土問題」などが、まさにそれだ。
こうした重要な「外交案件」においては、安倍は、国内政治のためにこそ、せいぜい「やってます感」こそ出していたものの、対象国からは、何の成果は引き出せなかったし、「北方領土問題」などは、その「口先だけの当たりの柔らかさ」につけ込まれて、まんまとロシアのゴリ押しペースに巻き込まれ、日本にとっての「問題解決」を決定的に遠ざけ、ロシアには「すでに解決済み」だと言わせてしまうことにもなってしまったのである。
したがって、このような事態をまねくことにもなる、日本人の大半を占める「政治意識が低い人=無関心派」の存在を、当たり前のこととして看過することなく、むしろ改めて浮き彫りにした点で、本作は「新しい」し、一方「政治意識の高い人」たちの大半も、「紋切り型の政治意識」を出ていないという意味で、政治意識が「浅い」ということを浮き彫りにしていた点でも、「尖った」作品だったと言えるだろう。
結局、日本人は、どこを見ても、ウケ狙いの「不徹底」なのである。
一一だからこそ「安倍晋三が殺されて、清々した」というような「本音の言葉」は、政治闘争の場所からは、決して聞こえてはこないのである。
繰り返すが、「安倍晋三が殺されて、清々した」というような「本音の言葉」を発する私のような者でも、だからといって「テロリズム推進」を訴えているわけではない。
それがまずいことくらいは、当たり前に理解しているからだ。
「テロリズム」を認めたならば、クソが殺されることもあれば、立派な人が殺される場合もあるからであり、そして「クソかミソか」は、その人に立場によって、真逆なものになるのだから、どちらの立場にしろ「テロリズム」を、「公式なもの」としては認められない、というのは当然のことなのである。
だが、最初にも論じたとおり、私たちも、心の中では「テロ」を認めているという側面が、たしかにある。「必要なら、殺害もやむを得ない」「それで世の中が良くなるのであれば、仕方がない」と考えるからこそ「公式なテロ」としての「死刑」に代表される「刑罰」が存在するのである。
だから、この度し難く生ぬるい政治認識しか持たない国民が、本当の意味で危機感を持つには、少なくとも「言論」においては、タブーで言説を囲い込んで、生ぬるい安楽に浸るという慣習を変えなければならないだろう。そのくらいのことすらできないのなら、この国が変われるわけがない。
頑固に戦う者なら、場合によっては、痛い目にも遭って変わることもあるけれど、戦わない者は、決して変わりはしない。なぜなら、変わる必要など、金輪際、感じはしないからである。
(2023年10月2日)
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