諸星大二郎 『夢のあもくん』 : 斜め裏側から襲来する〈メタ・ホラー〉
書評:諸星大二郎『夢のあもくん』(KADOKAWA)
衝撃の告発ホラー『一度きりの大泉の話』以降、やたらに目立つようになった(気がする)「萩尾望都」推薦の、最新の1冊である。萩尾望都の推薦文(帯文)によると、
のだそうだが、そりゃあ、語り手である主人公の「あもくん」が子供なのだから『子供の目で、ちゃんと見ている。』というのは、間違いではない(ただし、語り手の主人公は、あもくんには限られておらず、大人である、あもくんのお父さん目線の作品も少なくない)が、いずれにしろ、「子供の目」などという紋切り型の言葉に、さしたる意味はなく、忌憚なく言えば、あまり中身のない推薦文だと言えよう。
したがって、あくまでも大切なのは「萩尾望都」という推薦者の「名前」であり「権威」であって、「推薦の根拠やその中身」ではない、ということである。「萩尾望都」という名前がなければ、誰の記憶にも止まらない「凡庸な感想」でしかないのだ。(そして、むしろ真に怖いのは、こうした「凡庸さ」による、『一度きりの大泉の話』という「悪夢」の上書きと、その記憶の改変なのではないかと、私などは思う)。
本書の帯には、前記「萩尾推薦文」とともに、編集部が付したのであろう、
という説明的なコピーが添えられている。
こちらも、間違いではないが、ほとんど何も考えていない文章で、例えば「ホラー」というのは、基本的に「不条理」なものなのだから、「不条理ホラー」という言葉は、ほとんど何も語っていないに等しいのだ。
ただし、こちらは無名の編集者によるものだから、そこまで期待するのは初手から無理なことなのかもしれない。
ともあれ、かくのごとく、帯に刷られた「推薦文」や「紹介文的コピー」は、ほとんど何も語っていないに等しいが、本書の中身自体は、きわめて独創的に優れたものとなっている。
しかしまた、その独創性のゆえに、その独創性を説明しずらい作品だったとも言えるだろう。言うなれば本作品集は、ホラー読者の「斜め裏側から」、クスクス笑いしているような作品なのだ。
一一無論この説明では、未読の読者には、なんのことだか全く意味不明であろう。だが、読んだ読者には「なるほど」と感じられる、そんな「奇妙な作品集」が、本書『夢のあもくん』なのである。
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本稿タイトルでも示したとおり、本作品集に収められた作品は、基本的には「ホラー」ではなく、「ホラーを語るホラー」であり、より正確に言うなら「ホラーを語るホラー形式のマンガ」であると言えよう。
つまり、普通に「ホラー」なのではなく、「ホラー」というものの「特性」や「形式」を対象化してみせるのだ。その意味で、本作品集に収められたものの多くは「メタ・ホラー」であり、本書は一種の「ホラー批評マンガ」だと言えるだろう。
したがって、単純に「怖いマンガ」を期待した読者は、肩すかしを食らって、「何これ?」「ぜんぜん怖くない」といった感じになるだろう。
だが、「怖いホラー」を期待して、その見事な「転倒的相対化」が面白いと思った読者は、本書を、類例を見ない「ホラー批評マンガ」として、深く感心することになる。端的に言えば、本書はきわめて「知的な作品集」なのだ。
(※ 以下、ネタばらしがありますので、未鑑賞の方はご注意ください)
例えば、巻頭作の「人形少女」。
語り手の男性(じつは、あもくんのお父さん)が散歩をしていると、少女人形を引きずりながら歩いている少女を見かける。少女は、いわゆる「お人形さん」のような美少女なのだが、少女の引きずっている人形の方は、人形らしくない地味な顔立ちの少女人形だ。
そんなことをぼんやりと考えながら「人形を連れた少女」を目で追っていると、曲がり角のところで、いつの間にか少女と人形が入れ替わっている、ように見えた。つまり、少女の方は先ほど見た地味な顔立ちの人形そのままで、一方、人形の方は先ほど見た人形を連れた美少女そのまま、なのだ。少々分かりにくいかもしれないが、要は、少女と人形が入れ替わっているように見えたわけだ。
語り手の男性は、目の錯覚かと思いつつも少女を追いかけ、曲がり角の先の少女を再度確認してみるが、たしかに少女と人形が入れ替わっているように見える。
この不思議な謎に惹かれ、男性は少女をさらに尾行するが、少女は「森崎」という家に入っていき、入れ替わりの謎を解くことはかなわなかった。
以降、男性は、町内でしばしばその「人形を連れた少女・森崎かんな」を見かけるのだが、やはりその度に少女と人形は入れ替わっている。しかも、人形の方はどんどん大きくなって、いまや少女の等身大になっている。
そんなある時、少女が公園で他の子供たちと遊んでいるその横のベンチで、一人でゲーム機をやっているわが息子(これが、あもくん)を見つけ、後でこっそりと、少女を知っているかと尋ねる。すると、息子は「森崎さん」を知っていた。
そこで男性は息子に「森崎さんの人形」の髪型は「ロングだったか巻き毛だったか」と尋ねるが、息子は、人形になんか興味がないから覚えていないと、そっけない。では、「森崎さん」の髪型はロングだったかと尋ねると「さあ………? なんで森崎のことを訊くの?」と反問されて、ばつの悪さに質問をやめざるを得なくなる。
そんなある日、息子が森崎さん宅でのかんなちゃんの誕生日パーティーに招かれるのだが、帰りがひどい雨になってしまい、迎えに来て欲しいと連絡が入る。普段なら、そんな面倒なことには乗り気になれないあもくんのお父さんも、森崎家を偵察できると、進んで息子を迎えにいき、森崎夫人から「お茶でもどうぞ」と誘われて、森崎家に上がりこむことになる。お茶のために招かれた居間のソファーに座っていると、廊下を駆け抜ける「森崎かんな」ちゃんの姿が見えるが、その姿も、見るたびに入れ替わっている。
そうこうしているうちに、他の子供たちにも迎えが来て帰ったしまったようで、静かになったなと思っていた居間の男性のもとに「森崎かんな」ちゃんが訪れる。
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ここまでは、じつにオーソドックスな「ホラー」だと言えるだろう。
「等身大の人形と入れ替わってしまう少女の謎」。はたして、どちらが「本来の森崎かんな」なのか? あるいは「どちらが」というようなことではない、より深い「真相」が隠されているのか?
読者は、おのずと「想像を絶した恐ろしい真相」を期待するだろう。
ところが、最後のページで描かれるのは、ロングの地味な顔立ちの少女と、巻き毛の美少女が、仲良く手を繋いで、男性の前に立ち、
「どっちだと思う?」
と問う姿である。
一一これは、じつに見事に「読者の予測の裏をかいた結末(オチ)」だ。
「ホラー」読者ならば当然「どっちが本来のかんななのだろう」と、その「解答」を期待し、最後まで読み進むのに、本作では、逆に、最後で「謎の人形少女」の方から「どっちだと思う?」と、いわば反問され、解答を与えられないまま、放置されてしまうのである。
つまり、本短編「人形少女」は、「ホラー」そのものではなく、「ホラーの読まれ方」としてのその「構造」を、批評的に示した作品だと言えるのだ。
通常のホラーであれば、「超常的な謎」が提示され、主人公がその謎を追求していった果てに、「驚愕的な恐怖の真相」が明かされる、という形式になっている。
つまり、「推理小説」などと同様、「作者による謎の提示と、作者による真相の提示(種明かし)」であり、その意味で、通常の「ホラー」では、読者は「受け身の鑑賞者」でいることを許される、「エンターティンメント(娯楽作品)」なのだ。
だが、この「人形少女」は、そんな「ホラー」の定式の「自明性」を相対化し、批評的に突き放して見せる。
そのため読者は、このオチに「えっ!?」と驚かされた後、虚を衝くその意外性に「そんなところに落としたか」と、作者の一筋縄ではいかない発想の妙に驚き、感心させられることにもなるのだ。
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本作品集には、こうした「ホラー読者の(パターン化された)予想・推測」というものを、見事に相対化して転倒し、読者の肝を冷やさせる作品が多い。
「お約束どおりのオチを与えて、読者を安心して楽しませる」のではなく、「読者の予想を、想像もしえないかたちで裏切ることで、読者を(知的に)楽しませる」のである。
そのため「ふざけている」という印象を持ってしまう読者も少なくはないだろう。「怖い作品が読みたかったのに、ぜんぜん怖くなかった」と。
しかし、作者がこのような作品を描いたのは、きっと「手垢にまみれた、お約束のホラー」には飽き飽きしたからであろう。そうした定番ホラーが悪いとは言わないが、形式に安住して、結局は使い古されたパターンの表面的改装でしかないような作品ばかりを描くのは、クリエイティブ(創造的)な作家には退屈極まりないことだし、そんな作品は、「ホラー」に「ぬるま湯の安住」を求めない読者にも、どこか物足りないものでしかない。
「ホラー」と言えば「おどろおどろしいタッチで、気味の悪い人間や風景や化け物が描かれて、血なまぐさく残酷な結末を迎える」そんな作品だと考えるのは、間違いではないにしても、あまりに「惰性的」ではないだろうか。
そして、少なくとも、ホラーマンガの大御所である諸星大二郎には、そのように感じられたのではないか。「単に、気味の悪いものを描いて、読者を怖がらせればいい、なんてものは、もう描きたくない」と。
そもそも「ホラー」とは、堅牢な「日常」や「常識」というものを、食い破り破壊してしまうような存在の出現襲来を描くものであり、その「怖さ」とは本来的に「パターンを裏切る」もの、「人を安住させない」ものであるはずなのだ。
ところが、そんな「ホラー」も「商品化」が進むと、「パターン化」され「安心して楽しめる」作品に堕してしまう。しかし、それは「ホラーの堕落」であり、結局のところは「ホラーの自殺」につながるものなのではないか。
であるならば、本作品集において、諸星大二郎が行なっている、一見「ホラーへのからかい、嘲笑、相対化」といった行為は、「ホラー」を馬鹿にし軽んじるものではなく、むしろ「ホラー」の本来性を愛するするが故の「パターン化されたホラー」に対する「疑義の表明」であり「批判的批評」だと言えるのではないだろうか。
本作品集は、「いわゆる・怖いホラー」ではない。そうではなく、「手垢にまみれたホラー」の「手垢の殻」を打ち破って、「本来のホラー」を取り戻そうとする「怖い意図」を隠した作品集とでも言えるのではないか。
とにかく、「読者の裏をかく」その「唖然とさせられるような、超絶的なオチ」に驚いて欲しい。
この掟破りに嘲笑的な蛮行の果てにこそ、「ホラー」は、その「自由」を取り戻すのである。
(2022年4月5日)
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