本部流
本部朝基が開いた本部拳法に関する記事です。
本部家に家伝として伝わる武術に関する記事です。
空手の歴史についての考察記事です。
日本武術についての記事です。
沖縄の歴史についての記事です。
山田辰雄は本部朝基の初期弟子の一人だが、戦後山田先生と宗家(本部朝正)は文通をしていた。きっかけは、山田先生が昭和33年(1958)7月29日の日付のある宗家宛手紙を書いたことに始まる。 某氏が誰かは不明だが、筆者は小西康裕ではないかと推測している。小西先生は著書『空手上達法』(1956)で宗家のことを「尊父の遺業を継ぎ」と紹介していて(187頁)、山田先生より先に交流があったからである。 本部朝基の次男朝礎(1915–1943)は戸籍上は長男で、宗家は次男であった。これ
ベトナム滞在2日目の11月8日は、ホーチミン日本人学校で武道演武が行われた。ホテルで朝食を取った後、9時半に集合して専用バスで日本人学校へ向かった。前日同様、そこで午前中は演武のルリハーサルが行われた。 会場となる体育館はエアコンが設置されていたので、リハーサルは快適に行うことができた。昼はホテルには戻らず、用意された弁当を日本人学校の控え室で皆と一緒に食べた。 午後からは、生徒たちが会場の体育館に入場してきて、演武スペースの前後左右にびっしりと並んで座った。日本人学校に
「湖城嘉宝と上地完文」の記事で、上地完文が1896年(明治29)3月に渡清し、同年初夏に福州の湖城道場に入門したとされるが、同じ年に道場主とされる湖城嘉宝の娘が誕生しており、上地先生の渡清や入門の時期が間違っているか、道場主は湖城家の別人だったのではないかと述べた。 上地完英監修『精説沖縄空手道』(1977、以下上地本)によると、上地先生が渡清したのは徴兵忌避が目的であった(第3編44頁)。沖縄では他府県より遅れて1898年(明治31)1月1日より徴兵令が施行されることにな
ベトナム滞在初日の11月7日は宿泊先の日系ホテルで朝食をすませた後、班長の新崎師範は記者会見に出席するため専用バスで別の場所へ移動し、我々他のメンバーはこの日の武道セミナーの会場となるホーチミン市師範体育大学へリハーサルに向かうためホテルを出発した。 本部御殿手を含む各武道団体、流派のリハーサル時間はあらかじめ決められていて、それまでは控え室にいたり、会場の端で他のリハーサルを拝見したりして過ごした。 ベトナムは暑いと予想していたが、まさに日本の真夏並みの気温で、演武服を
上地完英監修『精説沖縄空手道』(1977、以下上地本)に、以下の文章がある。 まず、湖城嘉宝が湖城(くぐすく)のウメーと呼ばれていたということだが、ウメー(御前)は、御殿(王族)の当主に対する敬称で「殿下」のような意味である。たとえば、本部朝勇は本部のウメーと呼ばれた。しかし、湖城家は久米士族の名門とは言え、士族なのでウメーと呼ばれることはない。 また、湖城嘉宝はイワ―の勧めで中国へ渡って免許皆伝を得て、道場を開いたとある。上地完文が渡清したのは1896年(明治29)3月
11月6日から12日にかけて、公益財団法人日本武道館からベトナム社会主義共和国へ現代武道9道、古武道3流派からなる武道代表団が派遣されて、ホーチミン市で武道交流演武会が開催された。 今回の派遣は2023年(令和5年)に日越外交関係樹立50周年を迎え、日本を代表する現代武道並びに古武道の演武を現地で披露することで武道の国際的理解と普及を図り、あわせて日越友好に寄与することを目的とするものであった。高村正彦日本武道館会長を団長として、総勢約70名が代表団として派遣された。 今
前回の記事で、東京帝国大学唐手研究会(空手部)の三木二三郎(1904 - 1952)に湖城再鏡が一百零八の型を教えたという逸話を紹介した。この湖城再鏡については、「湖城流の系譜」でも紹介したが、『人事興信録』(第8版、1928年)により詳細な情報が記載されている。 それによると、湖城再鏡は明治元年(1868)年9月生まれ、元の名は百歳と言ったが再鏡に改めた。昭和2年(1927)年、家督相続した。ということは、この年、父の湖城嘉寶(宝)が亡くなったのであろう。母はマツル、妻は
前回の記事で、船越義珍は一百零八の型を教授していたこと、また20歳の頃、久米村の湖城大禎に師事していたという口碑があることを紹介した。ただし船越先生の師事した期間が3ヶ月であった点を考慮すると、一百零八まで習えた可能性は低いとも述べた。しかし、そもそも湖城流には一百零八は伝承されていたのであろうか。藤原稜三『東大拳法家列伝選』(1998)に以下の文章がある。 また、藤原は『全日本空手道連盟・和道会創立60周年記念特集号 和道会』(1994)でも、以下のように述べている。
2020年に出版された小山正辰、和田光二、嘉手苅徹『空手道 その歴史と技法』(2020)に以下の文章がある。 1929年(昭和4)は、大塚博紀が一百零八を演武した年である。上記には出典は書かれていないが、かりに船越先生が一百零八を教授していたなら、誰からその型を教わったのであろうか。可能性としては摩文仁賢和が高いと思うが、大塚先生の一百零八が船越伝だとすると、摩文仁先生に本来の一百零八を見せてもらって愕然としたという話と矛盾してしまう。摩文仁先生が船越先生に教授したものと、
湖城流は、久米士族の蔡氏湖城家に伝わる武術である。久米村には有名な政治家、蔡温(1682 - 1762)を輩出した蔡氏(元祖・蔡崇)があるが、これとは別の蔡氏(元祖・蔡廛、和名:具志堅親雲上)である。 湖城家の家譜は不明だが、四代祖として、蔡肇功(さいちょうこう、1656 - 1737)がいる。この人は5回唐旅し、特に暦法を学んできたことで有名である。また、琉球王国末期に活躍した政治家、蔡大鼎(和名:伊計親雲上、1823 - ?)もこの一族である。本部朝勇と一緒に中国旅行に
本部朝茂(1890-1945)は、本部朝勇の次男である。あだ名はトラジューと言った。上原清吉によると、虎の尾のように俊敏で強かったことからこのあだ名が付いたという。 もっとも沖縄には虎寿(とらじゅ)という童名があったから、この童名と俊敏さが相まって成人してからもトラジューと呼ばれていたのではないかと筆者は考えている。おそらく本部朝基の童名が三良(サンラー、サンルー、三郎の意)だったことから、その身軽さと相まって猿(サーラー、サールー)と呼ばれるようになったのと同様の経緯だっ
これまで筆者は屋部憲通の初期弟子の一人で、ブラジルに移民して当地で唐手(空手)を指導した屋比久孟徳を数回にわたって紹介してきた。 とりわけ1951年に開催された演武会の動画や同時期に撮影された写真は貴重で、屋部先生が沖縄県師範学校や一部の生徒に「課外」で教授したと思われる技法を考察する上で重要な手がかりを与えてくれる。 上のYouTubeの動画の解説には、以下の解説がポルトガル語で述べられている。 上記によると、この動画は演武者の一人、ガブリエル・コクバ(国場)の孫の方
先日、屋比久孟徳のひ孫の方からいただいた空手の写真を紹介したが、他にも空手の写真を何枚か頂いた。それらの中に、ピンアン初段の最初の構えと思われる写真が含まれていた。 周知のように、ピンアン初段では最初に左方向に上段諸手受けの構えをする。その際、右手は手のひらを外側に向けるのが一般的である。 しかし、上の写真では、手のひらは下側に向けられている。これは「受け」というよりは、突き、もしくは突きの準備のようにも見える。 屋比久孟徳は沖縄県師範学校で屋部憲通に師事した最初の学年
昨年末(2019年末)、屋部憲通の弟子の屋比久孟徳に関する記事を書いた。その記事がきっかけで、私は屋比久先生のひ孫の方と連絡を取ることができた。そして、先週、その方から空手の写真を何枚かいただいた。それらの写真は、それぞれ貴重な写真であるが、特に私の興味を引いたのは掛け手の写真である。 本部朝基も著書で掛け手の写真を何枚か掲載している。しかし、それ以外の掛け手の写真は、初めて見たように思う。 三木二三郎、高田瑞穂著『拳法概説』(1930)に掲載のインタビューで、屋部先生は
前回、屋部憲通の弟子の屋比久孟徳についての記事を書いた。その記事の中で、私は山内盛彬の文章を引用したのであるが、あの引用箇所の後に、まだ屋比久氏について述べた文章がある。以下にそれを引用する(注)。 引用箇所にある「空手の発表会」というのは、先日の記事で紹介した動画の発表会のようである。 動画の中で、 とナレーターが述べているからである(0:10-)。つまり、屋比久氏は、自分の命を削ってあの空手の発表会の準備をし、その様子を撮影した動画がいま全世界に公開されているわけで
屋比久孟徳について、知っている人はほとんどいないと思う。『沖縄空手古武道事典』にも、彼の項目はない。彼は沖縄県師範学校で空手を屋部憲通に師事した人物である。山内盛彬の「空手随想」(1956)に以下の一節がある(注)。 上記で、山内は屋部先生の弟子たちの名前を列挙している。遠山寛賢、徳田安文の両氏は、今日でもよく知られている。屋比久氏は彼らより先輩であるが、ブラジルに移民したため、日本では彼の存在は忘れられてしまった。しかし、屋比久氏はブラジルで空手を指導し、幸いYouTub