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本部御殿手

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本部家に家伝として伝わる武術に関する記事です。
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記事一覧

本部朝勇の中国旅行

前回の記事で、本部朝勇が明治43年(1910)、旅券(パスポート)を取得して、中国(当時は清国…

本部流
16時間前
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本部朝勇の本当の生没年

上原清吉は本部朝勇の生没年は正確には知らなかった。昔は師匠の年齢を質問したりはしないし、…

本部流
1日前
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ベトナム派遣:ホーチミン日本人学校

ベトナム滞在2日目の11月8日は、ホーチミン日本人学校で武道演武が行われた。ホテルで朝食を取…

本部流
5日前
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ベトナム派遣:ホーチミン市師範体育大学

ベトナム滞在初日の11月7日は宿泊先の日系ホテルで朝食をすませた後、班長の新崎師範は記者会…

本部流
8日前
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ベトナム派遣日本武道代表団

11月6日から12日にかけて、公益財団法人日本武道館からベトナム社会主義共和国へ現代武道9道、…

本部流
10日前
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本部御殿手の取手(3)ー能動柔術と受動柔術ー

昨年、本部御殿手の取手の特徴について(1)と(2)の2つの記事を書いた。 ・本部御殿手の…

本部流
6か月前
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複数敵と戦うということ

競技化された現代空手では、基本的に想定する敵は一人である。組手試合では対戦相手は一人である。近年行われている団体形の演武では、複数相手と戦う「分解」が披露されることはあるが、そうした演武目的以外で、複数敵と戦う稽古を普段からするということは一般的ではない。 そうした中で、本部御殿手は例外的に普段から複数敵を相手にした稽古を重視している流派である。 複数を相手にした稽古は、本部拳法にもある。実際、本部朝基は複数の敵に襲撃されたことがあったし、またそうした状況からいかに脱出し

上原清吉のフィリピン武勇伝?

昨年、アメブロのほうで「上原清吉の実像」という記事を書いた。どういうわけか、「上原清吉は…

本部流
8か月前
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スラ手:沖縄古来の気合い?

前回の「型の中の気合い」の記事は、型の中の見せ場で発する気合いについての記事であった。こ…

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本部流
9か月前
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棒高飛びによる脱出

琉球新報主催の本部朝基の「独占座談会」(昭和11年)で、以下のような逸話が語られている。 …

本部流
9か月前
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本部朝勇の影響力

坂口拳風(三重県古武道振興会、喜屋武朝徳伝少林寺流)の「武道の修練は道を離れず」(1982)…

本部流
11か月前
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ウフクン

最近(注:2017年)、空手の型の映像をいくつか見返している。先日、「糸洲安恒の改変」の記事…

本部流
1年前
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宮城調常 ー上原清吉の弟子ー

最近、昔の資料を調べていたら面白い記事を見つけた。それは宗家(本部朝正)の友人で、昔上原…

本部流
1年前
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兼島信助と本部朝勇

以前、『月刊空手道』2009年3月号で「渡山流 究武無限」と題して渡山流の兼島信助についての特集があった。そこに本部朝勇との出会いが書かれていた。 同記事によると、兼島先生は本部朝勇に明治44年(1911)1月(15歳)から大正3年(1914)7月(18歳)まで、そして半年休止して再び大正4年(1915)1月(19歳)から大正7年(1918)3月(22歳)まで師事した。 *年齢は数え年。 上原清吉が本部朝勇に入門したのが大正5年(1916)7月からだから、兼島先生の師事