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船越義珍と湖城大禎

2020年に出版された小山正辰、和田光二、嘉手苅徹『空手道 その歴史と技法』(2020)に以下の文章がある。

船越は糸洲安恒と安里安恒という首里手の先生に師事していたが、1929年に「サンチン(三戦)」「スーパーリンペイ(百〇八)」「転掌」など、「セーエンチン」を除く那覇手の形を自分の門下生たちに伝授している。更に、1935年に摩文仁を呼び寄せ、自分の門下生に直接「セーエンチン」を教授するよう依頼している(159頁)。

1929年(昭和4)は、大塚博紀が一百零八を演武した年である。上記には出典は書かれていないが、かりに船越先生が一百零八を教授していたなら、誰からその型を教わったのであろうか。可能性としては摩文仁賢和が高いと思うが、大塚先生の一百零八が船越伝だとすると、摩文仁先生に本来の一百零八を見せてもらって愕然としたという話と矛盾してしまう。摩文仁先生が船越先生に教授したものと、大塚先生に実演してみせたものは同じはずだからである。

それとも、船越先生は摩文仁先生以外の人から一百零八を教わったのであろうか。『日本武道大系 第8巻』(1982)に、藤原稜三が船越先生は湖城大禎に師事していたという話を紹介している。

さて、湖城守誠夫人・かめ(1878 - )の回想に従うと、富名腰が唐手術の修業を志したのは1890年(明治23)20歳の春だ。入門先は福州帰りの久米人・湖城大禎(1837 - 1917)の門である(1)。(中略)湖城はかつて東恩納寛量を指導したことのある実戦拳の名手であったが、弟子をとることを好まず、専ら独り稽古に励み、五十歳を過ぎてからも、僅か二拳をもって琉球牛を倒すほどの凄まじい強拳の持主だった。おそらく性格も拳に似て人一倍激しい人だったのだろう(150頁)。

湖城守誠は大禎の長男である。藤原は1970年代に沖縄を訪問した際、上記の話を聞いてきたという。湖城大禎は「久米村手」の使い手だったから、一百零八の型を知っていてもおかしくないであろう。また、東恩納先生は、中国へ渡る前、大禎に師事していたという説もある。前回の記事で紹介した湖城流の系譜によると、大禎はワイシンザンの弟子であった。また、安里安恒によると、東恩納先生もワイシンザンの弟子であった。もし東恩納先生が大禎から「紹介状」をもらって、渡清してワイシンザンに師事したとすれば辻褄は合う。

もっとも、藤原によると、船越先生が大禎に師事した期間は3ヶ月だったという。それではサンチンくらいは習えても、一百零八は習えた可能性は低いであろう。ここがこの説の難点である。

ただ船越先生は『琉球拳法唐手』(1922)で、一百零八の型を紹介している。以前述べたように、東恩納先生はペッチューリンを教えたのであって、その型を一百零八やスーパーリンペイを呼んだことはなかった。もし船越先生が摩文仁先生から教わっていたなら、どうして「一百零八」という型名を大正時代に知っていたのであろうか。

1867年に、首里崎山にあった御茶屋御殿(王家別邸)で、尚泰王冊封を祝う諸芸発表会が開催され、そのとき 富村筑親雲上が「壱百〇八歩」の型を演武したことは知られている。しかし、このプログラムが発表されたのは戦後になってからである。1867年から1922年まで、この型名は登場していない。これは船越先生が、東恩納寛量の系統以外の誰かから、この型についての情報を入手したことを意味する。その間、誰によってこの型は伝承されていたのであろうか。

また宮城先生や摩文仁先生がペッチューリンに一百零八の漢字を当て、さらにそれを中国語の発音のスーパーリンペイ(リンペー)へと「改称」した理由は何だったのであろうか。ペッチューリンの漢字表記は「百歩連」であり(2)、一百零八とは関係がない。師匠が教えた型名を改称するというのは強い動機があったはずである。彼等は東恩納先生以外の「権威」の意見に従ったのであろうか。

(1) 禎は言偏に貞と表記されているが、パソコンで入力できない漢字なので禎の字を用いる。
(2) 仲宗根源和『空手研究』(1934年12月5日)に「百歩連(ペツチュウリン)」とある。

出典:
「船越義珍と湖城大禎」(アメブロ、2021年10月22日)。


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