上地完文の渡清時期
「湖城嘉宝と上地完文」の記事で、上地完文が1896年(明治29)3月に渡清し、同年初夏に福州の湖城道場に入門したとされるが、同じ年に道場主とされる湖城嘉宝の娘が誕生しており、上地先生の渡清や入門の時期が間違っているか、道場主は湖城家の別人だったのではないかと述べた。
上地完英監修『精説沖縄空手道』(1977、以下上地本)によると、上地先生が渡清したのは徴兵忌避が目的であった(第3編44頁)。沖縄では他府県より遅れて1898年(明治31)1月1日より徴兵令が施行されることになり、これを忌避する目的で脱清する人が相次いだ。上地先生も施行前の1896年(明治29)3月、北谷村嘉手納の渡具知港から密航したという。
しかし、1898年(明治31)より沖縄県に徴兵令を施行することが明らかになったのは、勅令258号「沖縄県及小笠原島ニ徴兵令ヲ施行スルノ件」(明治30年8月7日公布)においてである。つまり、上地先生が密航したとされる1896年時点では、まだこの勅令は公布されていなかった。なぜ未来の出来事が予知できたのであろうか。
実は1899年(明治32)に沖縄県知事・奈良原繁(1834 - 1918)から陸軍大臣・桂太郎(1848 - 1913)宛に、徴兵忌避者の名簿が報告されているのだが、その文書の中に上地先生の名前が記載されている。
上記に「上地完文」の名前と、上地先生と同行したとされる「松田徳三郎」の名前が記載されている。この名簿には脱清時期も記載されているが、それによると、上地先生は1898年(明治31)5月9日に、松田は同年5月19日に脱清している。実際には上地本の記述より2年後に脱清していたのである。そしてその事実が翌年には沖縄県知事から陸軍大臣に報告されていた。
ちなみに、上地本では上地先生の生年月日は1877年(明治10)5月5日とされているが、上記によると1878年(明治11年)7月6日である。これはおそらく戸籍記載の生年月日であろう。
昔は実際の生年月日と戸籍の記載とがずれていた例もあったから、一概に上地本の記述が間違っているとは断定できないが再考する必要はあるであろう。また、上記の上地先生の下の名は「寛文」ではなく「完文」である。戦前の『空手研究』(1934)では上地寛文と表記されていて、筆者もそれが正しいのだろうと考えていたが、名前についても再考する必要がある。
出典:
「上地寛文の渡清時期」(アメブロ、2021年11月2日)。note移行に際して一部加筆修正。