湖城再鏡
前回の記事で、東京帝国大学唐手研究会(空手部)の三木二三郎(1904 - 1952)に湖城再鏡が一百零八の型を教えたという逸話を紹介した。この湖城再鏡については、「湖城流の系譜」でも紹介したが、『人事興信録』(第8版、1928年)により詳細な情報が記載されている。
それによると、湖城再鏡は明治元年(1868)年9月生まれ、元の名は百歳と言ったが再鏡に改めた。昭和2年(1927)年、家督相続した。ということは、この年、父の湖城嘉寶(宝)が亡くなったのであろう。母はマツル、妻はオトである。長男に湖城嘉重(明治29生)がいるが、湖城嘉富の名前はない。おそらく二男以下だったのであろう。
ほかにも、叔父、叔母、妹、孫等の名前と生年月が記載されているが、煩雑なので以下に系図を載せておく。湖城依凞、その養子となった嘉訓、ほかに嘉言などの男性の名があるが、湖城流の系譜には載っていなかった。しかし、おそらくそれぞれ武術は一応稽古はしていたと思われる。
上記に、湖城再鏡は沖縄県士族で多額納税者であると紹介されている。久米士族で廃藩後に事業に成功し多額納税者になったということだが、珍しい例である。たいていの沖縄の士族は他府県の士族同様、廃藩後には急速に没落した。
湖城家は裕福であったので、道場を開いて弟子を取ったりせず秘術の伝統を守ることができたのであろう。また息子の嘉富を東京の早稲田大学に進学させたのも、金持ちでないと当時の沖縄ではなかなかできないことである。
なお、湖城嘉宝や再鏡の生没年は、「湖城流の系譜」とは異なっている。下の系図は『人事興信録』に従ったが、他の資料とも照らし合わせて検討する必要があるであろう。
出典
「湖城再鏡」(アメブロ、2021年10月28日)