湖城流の系譜
湖城流は、久米士族の蔡氏湖城家に伝わる武術である。久米村には有名な政治家、蔡温(1682 - 1762)を輩出した蔡氏(元祖・蔡崇)があるが、これとは別の蔡氏(元祖・蔡廛、和名:具志堅親雲上)である。
湖城家の家譜は不明だが、四代祖として、蔡肇功(さいちょうこう、1656 - 1737)がいる。この人は5回唐旅し、特に暦法を学んできたことで有名である。また、琉球王国末期に活躍した政治家、蔡大鼎(和名:伊計親雲上、1823 - ?)もこの一族である。本部朝勇と一緒に中国旅行に出かけた湖城以恭(1858 - 1910)もそうである。
湖城大禎について述べる前に、湖城流の系譜を概観しておきたい。以下は、『精説沖縄空手道』(1977)に掲載された系譜で、湖城流から提出された資料に基づく。
流祖 湖城親方
湖城親方(唐名・蔡肇功)は、康煕4年頃(1665年頃)、中国兵法を学び、時の皇帝・聖祖(康煕帝―1655~1722年)より、兵法皆伝証を授けられ、帰国する。帰国後、兵法に含まれる武術・組打法等を一族の者に伝授したと伝えられる。
初代 湖城親雲上(異名は「生まれ武士」)
湖城親雲上、乾隆49年頃(1784年頃)、流祖の組打法と中国唐手術を併合し、新たに幾多の技法を編み出し、それらを流伝したと伝えられている。
二代 蔡昌偉(異名は「聖人タンメー」)
蔡昌偉(嘉慶11年〈1816年〉~明治39年〈1906年〉)は、90歳まで長寿を全うした武人だが、系図にも唐名しかない。久米村に住んでいた人で、杖術、棒術の達人として知られていたが、空手にはさほど通暁せず、後に努力を重ねて唐手術に達意した。蔡昌偉は「湖城流棒術」を編み出し、隠刃術、飛翔術を極意とした。
*嘉慶11年は1806年。90歳で亡くなったのなら、1916年が正しいか。
三代 湖城以正(異名は「名人」)
湖城以正(道光12年〈1832年〉~明治24年〈1891年〉)は、59歳で世を去ったが、16歳の時に父 蔡昌偉に同行し、中国に渡る。儒学を修め、中国兵法にも熟達し、特に中国槍術、弓術を極意とし、36歳の時に帰国した。唐手は中国人イワーに師事し、師が城中勤務に忙殺されていたので、その代師を長年勤め、帰国がおくれたという。
湖城大禎(異名「剛拳タンメー」)
湖城大禎(道光17年〈1837年〉~大正6年〈1917年〉)は、80歳の高齢を全うし、以正と同様中国にわたり、儒学、中国兵法、中国唐手道、中国槍・弓術を修めた。師匠はワイシンザンである。前記以正とは従兄の関係にある。剛柔流(那覇手の元祖)の東恩納寛量と「三戦論」を激烈にたたかわせたことは有名な話である。
四代 湖城嘉宝(異名「学者タンメー」)
湖城嘉宝(道光29年〈1849年~大正14年〈1925年〉)は、76歳まで天寿を全うし、儒学を学び、 唐手道、棒・杖術を修めた。湖城流杖術を編み出したのは湖城嘉宝である。また氏は一流の書道人としても名をなした。
湖城鳳鳴(異名「赤髭」)
湖城鳳鳴(咸豊11年〈1861年〉~大正8年〈1916年〉)は、58歳で没したが、儒学、棒術、唐手術を修めた。明治末年の沖縄相撲の横綱でもある。
五代 湖城再鏡(異名「久米島王」)
湖城再鏡(明治5年〈1873年〉~昭和16年〈1941年〉)は、78歳まで天寿を全うし、唐手術、杖術、柔術を修めた。
湖城秀蓮(異名「鬼部長」)
湖城秀蓮(明治16年〈1883年〉~昭和20年〈1945年〉)は、武士メーザト、真栄里小のタンメーとして知られる真栄里蘭芳(道光18年〈1838年〉~明治12年〈1904年〉)翁や四代目・嘉宝に師事し、唐手道、杖術を修める。秀蓮氏は沖縄県人では第一号の警部補である。
六代 湖城嘉富
湖城嘉富は(1906 - 1996)は四代目・湖城嘉宝(祖父)に12歳の頃から師事し、四代目没後、五代目・湖城再鏡(父)と湖城秀蓮(叔父)に師事し、現代に至る。
写真:久米村600年記念碑、那覇。
参考文献:
上地完英監修『精説沖縄空手道』上地流空手道協会、1977年。
出典:
「湖城流の系譜」(アメブロ、2021年10月20日)。