「いまの空手は芝居です」―山田辰雄と本部朝正ー
山田辰雄は本部朝基の初期弟子の一人だが、戦後山田先生と宗家(本部朝正)は文通をしていた。きっかけは、山田先生が昭和33年(1958)7月29日の日付のある宗家宛手紙を書いたことに始まる。
某氏が誰かは不明だが、筆者は小西康裕ではないかと推測している。小西先生は著書『空手上達法』(1956)で宗家のことを「尊父の遺業を継ぎ」と紹介していて(187頁)、山田先生より先に交流があったからである。
本部朝基の次男朝礎(1915–1943)は戸籍上は長男で、宗家は次男であった。これは長男の朝孝(1900–1945)が庶子だったからである。それゆえ、宛名は「朝正」なのに、あなたは朝礎かと書いているのは、二人を混同して確信がもてなかったためであろう。
宗家はおそらく返信で「朝礎の弟の朝正です」と書いたのであろう、次の手紙(8月27日)では山田先生は思い出して、「多分三十才位になっゐる筈ですが幾才になりますか」と書いている。宗家は当時33歳になったばかりであった。筆者が山田先生の弟子の小沼保氏から聞いた話によると、山田先生は宗家が赤ん坊の頃よく子守をしていたという。
自分が世話をした赤ん坊が戦後本部朝基の跡を継いでいると知って喜んでくださったのであろう。それから二人の文通が始まった。
さて、上の手紙では本部朝勇のことを朝桂と誤記している。実は戦後出版された空手書には朝勇を朝桂と誤記しているものがあるが、どうやら山田先生がこの誤記の出所だったらしい。
興味深いのは朝勇の次男のトラジューヤッチーこと、本部朝茂について言及している点である。トラジューは童名の虎寿、ヤッチーは「お兄さん」の意味で、年長者への敬称としても使われた。山田先生は一体なぜ本部朝茂のことを知っていたのであろうか。
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